黒の章
「手塚、今日もお疲れ様v」
それは練習で疲れた体を癒す一番の特効薬だった。好きな人から声をかけられ、振り向いたその先にはタオルを持った彼の姿が。
彼―――不二は誰にでも優しい。たとえ同じ部活の同期生、かつ自分は最も忙しい部長とはいえ、このようなことをしてもらえるのは自分だけではない。それはわかっているが、一瞬でもその笑みを自分のためだけに向けられると、それだけでその瞬間は至福の時となる。
が・・・・・・
本日の手塚の『至福の時』は、振り向いた瞬間に終わりを告げた。
「ああ、不二、助かる・・・・・・・・・・・・・・・・・・、
・・・・・・・・・・・・ところで、それは何だ・・・?」
いつもの笑顔で、いつもどおりタオル片手に、だがなぜか不二は逆の手にいつもとは違うものを持っていた。いや、よくよく見ればいつも以上の・・・なぜか、妙やたらと楽しそうな笑みを浮かべているような気がする・・・・・・のは、果たしてただの自分の気のせいだろうか・・・?
好きな人の、滅多に見られないそんな表情を見るのは嬉しい。実際、つられて自分の顔もほころびそうになる―――こんな状況でなければ。
「ああ、これ?」
やはり笑顔で(それも心底楽しそうな)、手に持った『それ』を掲げてみせる不二。
「僕の特製スペシャルドリンクv」
『それ』はガラスコップに入った物体だった。そして・・・
「なんなんだ、これは?」
「見たまんまだよ?」
「・・・・・・見て判らないから訊いているんだが・・・・・・」
そして・・・・・・それ以上は判断のし様がなかった。コップに入った黒い液体。黒ゴマ100%とかとも考えられるかもしれないが、この純然たる黒さはむしろ・・・・・・墨汁か、あるいは炭そのものしか思いつけない。
(これを見て何をどう判断しろと・・・・・・?)
が、眉間の皺1.5倍増しでそれを凝視し、冷や汗をだらだらと流してひたすらに考える手塚をどう思ったか、不二のくれた答えは彼の望むものとは全く逆だった。
笑みを消し、手塚を上目遣いで見上げ訊いてくる。
「もしかして・・・いやだった・・・・・・?」
「あ・・・・・・いや・・・・・・」
「手塚、いつも大変そうだから少しでも手助け出来れば、って思ったんだけど・・・・・・大石もいるから仕事の代理はできないし、僕に出来る事っていったらこのくらいしか思いつけなかったから・・・・・・」
目を落として、そう小さく呟く不二に、罪悪感を覚える。
そんなつもりではなかった。彼の行為は、そしてその思いはとても嬉しい。ただ、あれの中身がどうしても気になっただけで・・・。
「不二・・・・・・」
だが、手を伸ばしかけた手塚の前で、不二はぱっと顔を上げると何事もなかったかのように『いつもの』笑みを浮かべた。
「ごめんね、いきなりこんな事言い出して。
さ、早く部室戻って着替えよ。いつまでもこんなところにいたら整備してる1年の邪魔になるしね」
明るく言う。だがその笑みは本当にいつもと同じものか? いつもの温かさは全く伝わって来ず、物悲しさばかりを見て覚えるのは自分の加害妄想がそう思わせているからだけなのか?
「待て! 不二!!」
「え・・・・・・?」
気が付くと勝手に行動していた。
くるりと背中を向けた不二の腕を掴んで、手塚は渾身の力で自分の方に引き寄せた。
「わっ―――!!」
驚き、目を見開く不二の小さな体がすっぽり自分の腕に納まる。引き止めたい一心でしたはずが、予想外の展開に硬直する。
「手塚・・・・・・?」
その腕の中で、特に振りほどく事もせず首を傾げる不二の澄んだ瞳を間近で見つめ、硬直していた手塚の目元が徐々に赤くなっていった。
「あ、いや・・・・・・その・・・・・・!!」
慌てて不二を解放する手塚。その珍しい様に、不二がくすりと笑った。それは、今度こそ手塚の最も見たかった笑みで。
「で、何かな? わざわざ引き止めて」
面白そうに聞いてくる不二。もう迷いはない。たとえそれがなんであろうと関係はない。
決心して、手塚は口を開いた。口元に、目元に、僅かな笑みを浮かべて、
「いらないとは一言も言っていない。もらおうか、その『スペシャルドリンク』」
そう言い手を差し出す手塚に、不二は先ほど以上の驚いた顔を見せ―――ふんわりと笑った。
花が咲くような笑みで、
「ありがとう」
「いや・・・礼を言うのはこちらだ」
慌ただしく沈む夕日が着実に夜をつれてくる中、そこだけはのんびりと時間が進んでいるかのようだった。のんびりと、そう、とてものんびりと・・・・・・。
「ぐ・・・・・・!!!」
小さく言い遺し、テニスコートに沈み込む手塚もまた、ゆっくりと見えた。
のんびりとした空気そのままに、少しずつ意識が暗転していきつつも、手塚はとても満足な気分だった・・・・・・。
ほとんど日の沈んだ薄闇の中、ばたりと倒れた手塚を見下ろし、今までの雰囲気はどこへやら、不二は水筒を持ってふ〜むと顎に手を当てた。
「やっぱり危なかったのか・・・・・・」
「―――というと、危ないかもしれないものを飲ませたのかい?」
横手から掛けられた声。性格そのままで淡々とした口調に、不二はにっこりと笑ってその方向を見やった。
「盗撮かな? 乾」
「特に隠れてたわけじゃないだろ? お互い。ならその言い方は当てはまらないんじゃないかな?」
「なるほどね。まあどっちでもいいけど」
「確かにな。一方的に損したのは手塚だ。お前はたとえ今のものを撮られていたとしても何の損得もないだろうからね」
「まあ、ね。
――――――で?」
「何がだ?」
「用事は? まさかただの鑑賞じゃなかったんでしょ?」
「鑑賞としても見物だったけどね。不二はともかく手塚は演技ではなかったようだからね」
「あはは。冗談でやったのにまさかあそこまで反応してくれるとは思わなかったよ」
「実に手塚らしいな」
さりげにボロクソに言われる手塚。本日の彼の(文字通り)決死の努力は、全く実を結ばなかったようだ。
「そうそう、で、用事だけど・・・。
結局何なんだい? それ」
「ああ、これ?」
と、手塚のときと同様の笑顔で、不二が持っていた水筒からコップへと中身を移し変えた。やはりどぼどぼと黒い液体。乾の知識をもってしても、出された結論は手塚と同じになった。
「飲んでみる?」
「いや、止めておくよ。まだ命は惜しい」
「ふ〜ん・・・。けどキミ人には色々なもの飲ませるよね・・・」
不二の笑みが変わった。夜だから、という理由では絶対にない冷たい風が静かに吹き荒れる。
「けど俺は安全を考慮してるから」
「さすがに死にはしないと思うよ。ほら、手塚もまだ息あるみたいだし」
そう言って不二の指差す先、そこでは倒れた手塚が時折思い出したように指先をぴくぴくと動かしていた。
「ね?」
「・・・・・・・・・・・・」
冷たい笑みを消して、不二はいつも通りの笑みに戻った。
その笑みのまま、楽しそうに言う。月明かりに照らされ、もう時を計るものが何もなくなった中、ゆっくりと、殊更ゆっくりと・・・・・・。
「もちろん飲むよね?」
完全に日が沈み、校舎からの微かな明かりに照らされる中、男2人が折り重なって倒れる足元を見て、やはり不二は水筒を持ってふ〜むと顎に手を当てた。
「やっぱり危ないか・・・・・・」
「―――結局なんなんスか? それ」
また横手から掛けられた声。性格そのままの生意気口調に、不二はにっこりと笑ってその方向を見やった。
予想通り自分の真横にいる、そして今では真正面に来たリョーマ。その後ろでは他のレギュラー陣もずらりと並んでいる。
「ああ、これ?」
本日3度目になる台詞を言い、不二は余っていたそれをコップに注ごうと、水筒を傾けた・・・・・・。
「―――あれ?」
ぴちゃりと1滴だけ黒い液体が入る。その後はどんなに傾けても何も出てこない。
「残念。もうないみたい」
((((((よかった・・・・・・・・・・・・))))))
「で?」
もうないと知るとさらに強気に出るルーキー。が、
「実はこの間親戚筋から大量にイカが送られてきたんだけど・・・」
その発言を聞いて、とりあえず3歩ほど下がって他のレギュラーに前を譲った。
「凄く量が多くて、ご近所に配りもしたんだけど、なかなかなくならなくって・・・」
前に押しやられた2年2人が、急いで3年を前に導く。
「だから部活のみんなにもあげようかな、って思ったんだけどね・・・」
最初に出されたのは英二。思い切り顔を引きつらせて隣にいた大石の陰に隠れた。
「けどある程度日も経っちゃったから、もしかしたら傷んでるかもしれないって心配になって・・・・・・」
最前列に押し出された大石が自分を指差しきょろきょろする。
「だからとりあえず手塚と乾に味を見てもらおうと思って・・・」
だが、桃と英二には笑顔で手を合わせられ、海堂には深く頭を下げられ、そしてリョーマには何も言われはしないが背中にしがみつかれ、
「たたきにしてイカ墨と合わせてみたんだけど―――ああ、加熱もしっかりしたよ・・・」
ラストに河村と目が合う。愛想笑いを向けると向こうも愛想笑いで返してきた。
「けど・・・・・・やっぱダメだったみたいだね・・・」
もうダメだ・・・・・・これが大石が思ったただ1つの事だった。もうダメだ。ああ、俺は終わった。出来れば関東、いや、全国までみんなと行きたかった。けど青学は強いから多分俺がいなくても大丈夫だろう。ああ、けど英二、最後まで、一緒にダブルス組んでやれなくてごめん。英二ならきっと、俺よりももっといいヤツが見つけられるはずだ・・・・・・。
「―――と、いうわけで」
不二の独白[モノローグ]が終わった。どこに合っていたのかわからない焦点[フォーカス]を今、先頭にいた大石にしっかりと合わせ、
言った。
「部室に干物が置いてあるから、みんな自由に持って帰ってね」
「「「「「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」」」」」」
完。
結論―――不二の謎がまた1つ増えた。イカを大量に送ってくれる親戚というのは、果たしてどこに住むどのような人たちなのだろうか・・・。 By乾貞治
2003.3.21