「あれ・・・・・・?」
愛しの恋人を送り出した後、部屋に再び戻ろうとした不二の耳に、ふと曲が聴こえた。
神話の始まりに
こんこん。
がちゃ。
「―――裕太」
「おう、兄貴か」
部屋にてCDをかけていた裕太は、突如乱入してきた兄に振り向きながら、コンポのリモコンに手を伸ばした。
「ああ、別にいいよ。うるさいって注意しに来たわけじゃないから」
「そっか?」
笑って手を振る不二。裕太は首を傾げて壁時計を見やった。朝6時40分。音量には気をつけていたつもりだったが、さすがにこの時間から曲をかけるのは迷惑ではないだろうか? 特に隣の部屋でこれから寝るであろう兄には。
「けど早いね、裕太」
「まあ・・・隣であれだけバタバタやってりゃな」
「あはは。確かに」
ため息をつく裕太に、不二も面白そうにくすくすと笑った。久し振りに会えた喜びも、温もりを確かめあった後のまどろみも、全て捨てたあの騒ぎっぷりでは隣の部屋にいた弟が目覚めてもおかしくはない。
不二もまた時計を見る。当り前だが裕太が見た時とさしたる変わりはない―――分針が1つ進んではいるが。愛しの恋人ことリョーマの、というか青学の部活開始時刻は6時50分。この様子では今日もダッシュで学校に着くなり手塚にグラウンド何十周かを命じられるだろう。
「でも裕太がこんな時間に起きてるなんて珍しいなあ。前は朝遅かったのに」
「いつの話だよ・・・・・・」
懐かしそうに頷く不二に裕太が半眼で問いた。確かに朝は苦手だった。いろんな意味で。
家にいた頃は朝になるたびこの兄と姉に「起こしに来ただけ」などと称され夜這いならぬ『朝這い』を喰らい、ルドルフ寮に入りこれで安心して眠れると思ったら寮の電話に毎朝モーニングコールがかかる始末。最初は姉だけだったものの、あのルドルフ対青学戦以降兄まで加わりだし、すっかり自分は周りにシスコン&ブラコンというレッテルを貼られてしまった。
こんな環境下で平気で眠れるだけの神経の持ち主がいたらお目にかかりたい。
なんて事を裕太が思っている間にも、気にせず不二が次の質問を飛ばした。
「で、何でこんな朝早くからそんな作業やってるの?」
世界トッププロのテニスプレイヤーだとは信じられない細い指で、コンポを指差す。液晶画面には、CDだけでなくMDの表示も現れていた。恐らく録音しているのだろう。
「ああ、桃城にオススメだってCD借りたんだけどな、このところ忙しくってなかなか聴けなかったから今のうち撮っとこうかって思って」
つまるところ不二が日本に帰ってきたおかげで店が忙しい、とわざわざ解説する事もないほどはっきりと言い放つ裕太。別に本気で嫌なわけではない。さっきの仕返しなだけだ。
わかっているのだろう。不二もくすりと笑い、頭を下げた。
棒読み口調で、言う。
「それはまたご迷惑をお掛けしまして」
「―――なんて微塵も思っちゃいねーだろ」
「もちろん」
にっこりと笑みを浮かべる不二。全く悪びれる様子もないその態度に、裕太も軽く肩を竦めた。自分がこの家に戻ってきた頃には、兄はもうプロデビューを果たし、アメリカを中心に世界へと飛び立っていっていた。触れ合える時間はほとんど変わっていない。だが、今ではこうして『普通の』兄弟っぽい会話が当り前になった。ずっと一緒にいたならば絶対に起こらなかったであろう変化。兄を最大の目標とし、倒したいと思う事は今でも変わりない。だが、兄は『倒すべき目標』であって『憎むべき対象』ではない。離れてみてようやくわかった。如何に自分の視界が狭まっていたか。如何に自分が『不二の弟』というたった一言に捕らわれていたか。あの時自分が越えたかったのは兄ではない。自分だ。勝手に限界を作り、縛り付けていた自分自身だ。
今ではこの兄を誇りに思う。この兄と兄弟でよかったなと思う。
「―――裕太、曲終わったよ」
「え・・・?」
物思いに耽っていたところを、その兄の声で引き戻される。確かに部屋に流れていた音楽が消え、澄み渡った空気の中に不二の静かな声だけが波紋を広げていた。
「あ、ああ・・・・・・」
そんな事を考えていたのが少し恥ずかしい。視線を逸らしてコンポに足を向ける裕太に、不二が笑顔のまま尋ねた。
「どうしたの?」
「べ、別に・・・////」
「そう?」
尋ねるまでもなく、自分を見て目を細めていた弟を見れば考えていたことなど一目瞭然なのだが、それでも尋ねてしまうのは彼がそんな事を考えててくれた事が嬉しいからか。
微かに赤くなった顔を隠すように慌ただしく、借りたCDを傷つけそうな勢いで急いで取り替える裕太を不二は微笑ましく見守った。
CDは運良く傷付かずに済んだらしい。再び部屋に曲が流れ出す。
<残酷な天使のように
少年よ 神話になれ>
「―――裕太、この曲・・・」
「ん? 桃城に借りたのだけど・・・兄貴も気に入ったんなら撮るか?」
顔を上げ振り向く裕太。その目が、兄の顔を捉えた。
今までの笑みではない。開いた目を、どこに向けているのか分からないまま口だけを機械的に動かす兄を。
「いや、いいんだ・・・・・・」
呟く不二。細めたその瞳には、先程送り出した少年が映し出されていた。これから神話になるであろう―――これから自分がそうさせるであろう少年が。
そんな不二の気持ちを代弁するかのように、歌が続いた。
<蒼い風がいま 胸のドアを叩いても
私だけをただ見つめて 微笑んでるあなた
そっとふれるもの もとめることに夢中で
運命さえまだ知らない いたいけな瞳>
そう仕組んだのは自分。周りに目が向かないように、自分だけに目を向けさせていた。
―――『僕に―――勝ってみたくない?』
―――『へえ・・・・・・。
いいよ。付き合ってあげるよ。アンタのその「ゲーム」』
その言葉で、彼を縛りつけた。彼の目の前に立ち、まるでねこじゃらしで猫と戯れるかのように、適度な甘さと苦さを含んだ『からかい』で彼を束縛しつづけた。
<だけどいつか気付くでしょう その背中には
遥か未来 めざすための 羽根があること>
気付かなければならない。彼はこんな所で自分と戯れるだけの存在ではないことを。彼も―――自分も。
<残酷な天使のテーゼ 窓辺からやがて飛び立つ
ほとばしる熱いパトスで 思い出を裏切るなら
この宇宙[そら]を抱いて輝く
少年よ 神話になれ>
飛び立ってしまったなら、彼と自分はどうなるのだろう。彼の中での自分は、自分の中での彼は。
消えてしまうのなら、全ての頂点に立って欲しい。
誰よりも上に。そうしたらその中に自分も含まれるから。
そうしたら・・・・・・ずっと一緒にいられるんだと錯覚に陥ることができるから。
<ずっと眠ってる 私の愛の揺りかご
あなただけが 夢の使者に 呼ばれる朝がくる
細い首筋を 月あかりが映してる
世界中の時を止めて 閉じこめたいけど>
その朝は、もう訪れてしまった。今から、自分は彼に全てを見せる。閉じ込めるのが自分ならば、夢の使者になるのも自分。
矛盾した行為。果たして自分はどちらを望んでいるのか。閉じ込めたいのか、飛び立たせたいのか。
多分どちらもなのだろう。誰のためでもない。自分のために。
閉じ込めるのが自分のエゴなら、飛び立たせるのもまた自分のエゴ。
彼は果たしてどちらを望んでいるのだろう。
(まあ確認するまでもないだろうけどね)
<もしもふたり逢えたことに 意味があるなら
私はそう 自由を知るためのバイブル>
(『意味』・・・・・・)
ふと思う。では自分と彼が出会った意味はなんだったのだろう、と。
(リョーマ君にとって僕は・・・・・・)
―――大空を見るためのトライアル。そんなものかもしれない。
そこに在るだけではわからないから。失ってみて、失いそうになって、人は初めてその事実に気付く。それは視力を失った人が『見えること』のありがたさを知るのと同じ。何もなければそれは『当り前』にすぎない。
自分という障害を知って初めて、彼は大空の存在を知る。
そして、知ったなら、彼はもう迷わない。そこへ向かってただ飛び立つだけ。
自分はただ・・・・・・飛び立つ彼を絶望を込めた眼差しで送り出すだけ。
<残酷な天使のテーゼ 悲しみがそしてはじまる
抱きしめた命のかたち その夢にめざめたとき
誰よりも光を放つ
少年よ 神話になれ>
知りたくなかった『悲しみ』。知るのはこれで2度目。裕太が家を出て行った時と、そして今。
自分は見守ることしか出来ないから。
見守り、ただ祈ることしか出来ないから。
だから、祈りつづけよう。
誰よりも、輝く存在になれるよう。
自分では到底たどり着くことの出来ない、
遥かなる高みへと辿り着けるよう。
<人は愛をつむぎながら 歴史をつくる
女神になんてなれないまま 私は生きる>
もしも神に―――彼にとって自分が全能の存在だったとしたらどうなっていたのだろう。
(・・・・・・手塚が僕にとってそうであったように)
『神』になんてなれない。自分はただの『天才』でしかない。
彼の望むものは自分では用意出来ない。
彼にとって、自分は全てではない。
彼にとって、自分は第一歩でしかない。
それでも、自分は地上[ここ]で生きつづけよう。
ここで、彼の居場所を守りつづけよう。
もしも疲れたなら、いつでも帰って来れるように。
いつでも、その羽根を休めることができるように。
そして―――また上を目指して飛び立てるように。
<残酷な天使のテーゼ 窓辺からやがて飛び立つ
ほとばしる熱いパトスで 思い出を裏切るなら
この宇宙を抱いて輝く
少年よ 神話になれ>
「―――兄貴?」
「何? 裕太」
「何・・・泣いてんだ・・・・・・?」
「え・・・・・・・・・・・・?」
言われ、きょとんとする不二。瞬きした弾みで、溜まっていた涙が頬を伝う。
「あ・・・・・・」
その感触にようやく気付いたのか、今更ながらに頬に手を当てる。
(もったいない・・・・・・)
綺麗な涙。こんな涙、流せるのはきっとこの兄しかいないのだろう、と、思わず見惚れてしまった。
「何でもないんだ、うん。何でも・・・・・・」
誰に対して言っているのか、自身に対して言い聞かせているのかもしれない。
「なら・・・いいんだけどな・・・・・・」
これ以上見ているのが罪であるかのように、裕太が視線を逸らして逆側を向いた。丁度彼に視線を逸らす口実を与えるかの如く、撮り終わったCDが微かな音を立てて止まる。
自分から離れていく裕太。その背中に、不二が額を当てた。抱きつくような真似はしない。今抱きつけるのなら、あの時手放したりなどしなかった。
「兄貴・・・・・・?」
「ねえ裕太・・・」
首だけで振り向く裕太に、訊く。その声は、涙に濡れてはいなかった。
「あの時・・・裕太が家を出て行くって行った時、もし無理矢理でも止めていたとしたら、どうなってたんだろうね・・・・・・?」
欲しいのは保証。胸を切り裂かれるかのような苦しみを負ってまでする必要があるのか。何もしなければ、彼はいつまでも自分の元にいる、というのに・・・・・・。
(兄貴・・・・・・)
訊かれた内容より、兄の態度より、何より―――兄に質問されたという、その事実が一番の驚きだった。今までの人生で一度もなかった事だ。この兄に何かを、少なくとも深刻な顔で『相談』と呼べる部類の事を尋ねられたのは。
背中にかかる兄の体の温かさを感じながら、裕太はゆっくりと息を吐いた。その質問に答える事は簡単だ。つい先程自分も同じようなことを考えていたのだから。
「さあな。けど、『今』とは変わってたんじゃねーの?」
どう変わっていたかは言わない。離れた結果である『今』しか知らないのだから。『仮定』は無限につくれようが、『結果』は1つしかつくれない。それが人生だ。
それを聞いて、不二は裕太から身を起こした。思い出す。今の裕太の言い方。あの時の手塚と同じだ。
あの時、自分がプロデビューする前の事。自分の全てだと思っていた存在がいなくなった。どうしたらいいのかわからなかった自分を後押ししてくれたのは、確かに彼のそんな言葉だった。
―――『ねえ手塚、もしも僕が世界の頂点に立てたとしたら・・・・・・、その時僕は君に勝ったっていえるのかなあ』
―――『・・・・・・。さあな、俺にはわからん』
見送るばかりではなかった。自分は手塚に見送られたのだ。だから今、ここにいるのだ。
「・・・・・・・・・・・・ありがとう」
あの時と同じ言葉を弟に言う。迷いはもう消えた。
これがどんな結果を生み出すのか分からない。それでも、僕は彼を送り出そう。
鳥はカゴに閉じ込めるべきものじゃない。その羽根は、いっぱいに広げ、大空を飛び回るためにあるのだから。
「ありがとう、裕太」
「・・・おお」
この兄が何を悩み、何のためにこんな質問をしてきたのか、それは一切分からない。だが、そんな事よりきっと、今自分の目の前でにっこりと笑って礼を言う兄の方が大事なのだろう。
部屋を出て行く不二に軽く手を挙げ、裕太はそんな事を思った。
そして―――
「―――不二、本気でやるつもりか?」
「そのつもりだよ。
―――今日は本気で潰す」
少年は、立ちはだかる大きな壁と、その向こうでどこまでも広がる大空の存在を知る・・・・・・・・・・・・.
―――Wanna Rise! へ
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
そんなわけでこの話、まあ初っ端の歌詞を見ればわかった方も多いでしょう。新世紀エヴァンゲリオンのOP『残酷な天使のテーゼ』でした。友達に貸してもらったCDの中に入ってた1曲で、オリジナルじゃなくて他の方のカバーだったんですけどね、なんか聴いてみればみるほどこのシリーズの不二先輩だなあ、なんて思ってみたり。なお最初除いて歌詞は反転すると見えるようになっています。これでも十二分にアウトなのですが、ないと話が伝わらなくって・・・・・・。
『Wanna Rise!』とセットで読むと実は不二先輩が二重人格者っぽいです(三重、かな?)。リョーマに上を目指して欲しいけどでも自分のところから離れては欲しくなくて、それでありながらリョーマをけしかけ歯向かって来る彼にスリルを感じる。―――何重人格だよ・・・・・・。
そんな様々な思考回路を持った彼でした。以上(強制終了)!
2003.6.8