せんじょうの騙し合い Party Game








  4.深夜の密会 後編

 胸くそ悪いミーティングを終え、さっさと部屋に戻ろうとした跡部。その足がぴたりと止まった。
 人気のない廊下。人気のひとつしかない廊下。
 「よっ。景吾」
 ひとつの人影が、声をかけてくる。波に乱反射した月明かりがその顔を照らすより早く、跡部もまた声をかけた。
 「やっぱいやがったか、佐伯」
 月明かりが姿を照らす。名指しされた通りの人物がそこにはいた。
 壁に凭れ、オレンジを弄ぶ佐伯に跡部が足を止めた。一瞬で判明する、自分と佐伯の立場。決定的に分かれてしまった、2人の立ち位置。
 代わりとばかりに佐伯が歩き出した。
 世間話など仕掛けてみる。
 「調子どうだ?」
 「別に。普通だろ?」
 「明日、試合か?」
 「まあな」
 「八百長に乗る気はなし?」
 「ねえよ」
 「だろうな」
 頷く。穏やかな空気が流れる。
 さらに切り出した。
 「さっきここでな、越前リョーガに会ったよ。『俺のモンになんねえ?』だって」
 「ほお・・・」
 「『いいぜ』って頷いたよ。別に今フリーだし、一緒になって何か困る事もないしな」
 「ほお・・・」
 「・・・・・・何にも言わないんだな」
 「言う理由もねえだろ。てめぇはてめぇのしたいようにすりゃいい」
 「ははっ。それもそうだな」
 笑いながら、通り過ぎる。通りながら、
 ―――結局一口しか食べなかったオレンジを軽く放った。
 受け止める跡部を振り返りながら確認し、
 「お前は越前の事だけ心配してればいいよ」
 「当然だろ?」
 返事にためらいはなかった。安心する。
 投げ返されたオレンジを上げた手で受け取り、佐伯はその場を立ち去っていった。
 立ち去る背中に、跡部は最後の言葉をかけた。小さく笑って、
 「そういや、飯美味かったぜ。ありがとよ」
 「・・・・・・・・・・・・。お粗末様」







・     ・     ・     ・     ・








 その頃、リョーマはプール脇のベンチに座り、ラケットのフレームでボールを跳ね上げていた。陰鬱に思い出す。今日会ったリョーガの姿。
 会ったのは数日振りだ。数日よりちょっと前、かの兄は何の前触れもなくふらりと帰ってきた。元々兄にはそのケ―――放浪癖に近いものがあった。日本やアメリカで一緒に住んでいた頃も、突然いなくなり突然帰ってくる事など珍しくもなかった。取り立てて何か訊く事もなく、家族内ではそれが当たり前となっていた。日本に自分たちが帰ってきた時、一人アメリカに残ったのもそんなこんなであっさり許された。
 年齢にそぐわず大人びた兄だ。確かに今、自分の身の回りでも中学生らしくない人は多い(誰らがとは言わないが)。だが兄はそういうのとは違う感じだ。本当に大人びていたとでもいうか、いっそ本当に大人だったとでもいうか。子どもじみたイタズラなんかもよくやっていた。しかし―――
 ―――父親である南次郎とは別に、リョーマにとっては兄もまた父親のようなものだった。少なくとも、自分はそう感じていた。
 「放浪の謎は解けた、ってワケね・・・」
 時々いなくなっていたのは、このようなイベントに参加するためだろう。千石の話では自分たちがアメリカにいた頃から―――どころかむしろアメリカにいた頃を中心にやっていたというし。
 ショックを受けた、なんて事はない。失望したわけも、怒りを感じたわけも。そもそもあの兄に何か期待していたわけではないのだから。
 覚えたのは、空虚感だった。胸の奥で何かが抜け落ちたような、そんな感じ。





 ―――『テニスはな、でっけえ夢見せてくれんだ。
     お前らも見つけろよ、でっけえ夢をな。リョーガ、リョーマ』





 アメリカでの自分たちの家。庭にはオレンジの木があった。上り、必死にオレンジを取ろうとしていた自分を笑いながら、兄は木にボールをぶつけ落としていた。
 『や〜いここまで来てみろよチビ助!』
 怒る自分から逃げながら、兄はそんな事を言っていたか。
 「そういえば・・・・・・」
 意識が現在に引き戻される。拍子に、なんとなく打っていたボールのタイミングが狂った。
 「あ・・・・・・」
 呟く間にも跳ねたボールはてんてんと転がりプールへ。
 ため息をつき、立ち上がりかけ。
 「・・・・・・っと」
 ボールの代わりに、上から振ってきたものをラケットで跳ね上げた。ボールほどではないが見慣れたもの―――オレンジを見て、現在にあった意識が再び過去へと戻りかける。
 戻りかけ―――
 「―――よおチビ助。何やってんだこんな夜更けに」
 「リョーガ・・・・・・」
 オレンジに続いて上から降ってきた声に、半端な意識のままリョーマは上を見上げた。プールを見下ろす形である2階テラス。そこから身を乗り出していたのは、反射的に呼びかけた通りの人物だった。
 こちらを見下ろすリョーガ。重なる、面影と現実。変わらないのに、変わってしまった兄。変わったのは兄自身ではなく―――自分の中の兄。
 目を閉じる。面影を消す。変わってしまった以上、変わる前と比べ嘆くのも馬鹿馬鹿しい。
 目を開く。残ったのはもちろん現実の兄。半眼を向け、
 「何やってるワケ? アンタ」
 「お前の観察?」
 「ふざけてないでよ」
 苛立つ。こんな兄の態度はいつもの事だというのに。
 そんな様子は伝わったらしい。リョーガがにやにや笑ってきた。いつもと同じ笑い。
 「おお怖い。ピリピリしてんなあ。生理中か?」
 「馬鹿じゃんリョーガ」
 合わせ、こちらもいつも通りとなるリョーマに、
 リョーガは笑って本題に入った。
 「話もう聞いたか?」
 「何を?」
 「わざと負けろって」
 「それなら来る前言われてた」
 「で? 受けるか?」
 「やだ」
 はっきり断られる。同時に打たれたオレンジをこちらもラケットで受け止め、ボールと交互に打ち上げる。
 「よ、っと」
 トスをしたままテラスの細い柵に乗り、
 「八百長は嫌いか?」
 「嫌い」
 「それはそれでいいと思うけどな」
 「は? どこが」
 問われ、リョーガが詰まった。別に質問に詰まったわけではない。丁度柵の切れ目になっただけだ。
 ジャンプし、バランスを保ちながらなおも歩いていく。リョーマの横にいたのが前になった。
 跳ね上がるボールとオレンジを見ながら、改めて続けた。
 「面白いぜ、八百長ってのも。世界を裏側から見てるみてえなモンだ」
 「汚い面を、じゃないの?」
 「同じだろ? 『ああこんなモンか』って思うぜ」
 「それのどこが楽しいワケ?」
 「お・・・っと」
 再び詰まるリョーガ。今度は柵から落ちたようだ。さすがに下を見ずに歩き続けるのには無理があったらしい。
 向こう側に消えたリョーガが、やや経って現れた。
 跳ね上げていたオレンジを齧り、
 「八百長とは別に、俺と賭けねえ?」
 「・・・・・・何を?」
 「跡部クン」
 さらりと言われ、今度はリョーマの方が詰まった。リョーガはオレンジを持ったまま弟を指差し、
 「お前が負けたら跡部クンには今後一切手は出さねえよ、チビ助」
 「俺が勝ったら、じゃなくって?」
 「それじゃ端っから結果わかってて面白くねえだろ? お前のために条件ゆるくしてやったんじゃねえか。感謝しろよ? 優しいお兄様に」
 「ふーん」
 頷き、
 リョーマはにやりと笑った。いつも通りの、生意気な笑みで。
 「じゃあ断る」
 「お?」
 「あの人、弱いヤツには興味ないからね。俺が勝ったら、跡部さんもらうよ、リョーガ」
 堂々宣言。指の代わりにラケットを突きつけられ、
 リョーガは暫し呆気に取られた後、小さく呟いた。
 「お前のでっけえ夢は跡部クンと一緒に、か・・・」
 「・・・・・・何?」
 聞こえなかったようだ。聞こえないように呟いたのだから当然だろうが。
 それを無視し、オレンジを齧る。適度な苦さと酸味、それに甘味を十分堪能し。
 ハッと鼻で笑ってやった。
 「言ってくれんじゃねえの。後でべそ掻くんじゃねえぞ」
 「アンタがね」
 「ま、明日はせいぜい『頑張れ』よ。生きて帰りたいんだったらな」







・     ・     ・     ・     ・








 弟と離れ、テニスコートへと向かったリョーガ。コートに立ち、クッと笑う。
 らしくもない。試合前に練習とは。
 今までの相手など、そんな事をせず余裕で勝てていた。元々の実力が違う上、みんな命は惜しいものだ。進んで負けてくれる。
 今回は何が違う? 相手が弟だから? 八百長を受けてくれなさそうだから? それとも・・・・・・
 とりとめもなく考えるリョーガの耳に、
 クッと笑い声が届いた。
 最初は自分が笑ったのかと思った。だが違う。
 見上げる。客席にいた男を。
 「八百長は世界を裏側から見てるみてえなモン? それの何が楽しいってんだ?」
 「やあ跡部クン。今日はよく会うね」
 見下ろしてくる跡部に、リョーガはひらひらと手を振った。特に応えてもらえなかったが。
 肩を竦め、
 「盗み聞きなんて人が悪いなあ君は」
 「気付かねえてめぇの責任だ」
 「その理論で行ったら世の犯罪者は随分楽なモンだな」
 「ふざけてねえで答えろよ。俺にゃ誤魔化しは通用しねえぞ」
 「何の事かな?」
 「さっき落ちたのわざとだろ? 越前の質問に答えれらなかったから話題転換した。違うか?」
 鋭い目で問われ、
10秒ほど沈黙してみる。してみた後、
 やはり浮かぶのは笑顔だった。
 コート脇のベンチに辿り着く。置いておいた新たなオレンジを手に取り、リョーガは問い返した。
 「ちなみにここでさらに話題転換してみたら?」
 「肯定と見なす」
 「じゃあしてみようか。君は世界を表側から見て楽しい?」
 「全然換えてねえじゃねえか。
  少なくとも裏から見るよりゃな」
 「それでも答えるんだな。
  でも時には裏から見てみたい、って思う事は?」
 リョーガからしてみれば、それは『素朴な疑問』だった。表から見るのに飽きたから裏から見てみたのだ。尤も・・・
 ・・・・・・どっちから見てみてもあまり違いはなかった、というのが自分の見出した結論だったが。
 跡部は違うように捉えたらしい。罠にかかった獲物を見るように、面白げに目を細めてきた。
 「そういう台詞は自分で思ってるから言うんだぜ? てめぇこそそろそろ世界の裏見んのも飽きてきたんじゃねえのか?」
 じっと見つめられる。細めた奥にある、真っ直ぐな眼差し。眩しいそれ。思わず重ねてしまう。かつての、現在の、弟のものと。
 眩しくて、眩しすぎて。自分はもう真っ直ぐには見返せないほどだ。
 笑顔のまま、瞳を閉じる。眩しさを瞼で遮断し、茶化した。
 「その理屈でいくと君も表から見るのに飽きたのかな?」
 「で、俺を賭けるんだって?」
 悪びれもせず話題転換をする跡部。リョーガも了承したと肩を竦める。
 「君も肯定派、と。
  ああそうだけど? 何か悪かったかな?」
 「別にいいぜ。あの条件ならな」
 「弱いヤツは嫌い?」
 「大っ嫌いだな。わざと負けるヤツは特に」
 「つまり俺にも本気でやれと、そう言いたいのかい?」
 さりげなく訊く。かまかけだった。『あの話』を跡部が聞いたのか否か。
 そんなかまかけは意味がないようだった。跡部ははっきりと答えてきた。
 「さっきお前ンとこの料理人に会ったぜ。てめぇのモンなら大事にしろよ」
 聞いたらしい。それでありながら逆八百長は許さないという。自分とリョーマの実力差はわかっているだろうに。
 くつくつと、リョーガが笑った。あえて結論は先送りにして質問を重ねる。『跡部景吾に心を寄せる一人』ではなく、『越前リョーマの兄』として。
 「何でお前、チビ助選んだ?」
 「選んでねえ。『大事なヤツ』がひとりしかいねえような寂しい人生は送っちゃいねえからな」
 「チビ助が怒るぜンな言い方は。アイツ独占欲強ええからな」
 「てめぇもだろ?
  ・・・・・・全く、てめぇら兄弟はほんっと手のかかる点じゃよく似てるぜ」
 「お前らもな。底抜けのお人よしって事に関しちゃそっくりだ」
 意味は違っても、それでも好きである事に変わりはないから。だから幸せになって欲しい。
 何となく嫁(未来の)の父親を前にした婿の、そして同時に婿(こちらも未来の)を前にした父親の気分で、リョーガは宣言した。
 「大事にするさ。お前と同じくな」
 手に持っていたオレンジを投げる。無傷のオレンジ。手をつけていないオレンジ。
 跡部が受け取ったのを確認し、立ち去りがてらもう一度ひらひら手を振る。返品不可という意味で。
 「ま、明日はせいぜい『頑張れ』よ。生かして帰したいんだったらな」
 「バーカ。当然だろ?」







・     ・     ・     ・     ・








 プールに浮かんだテニスボール。取ろうと身を屈め、ふいにリョーマは顔を上げた。
 「カル?」
 呼びかける。密かに連れて来た愛猫の名を。
 カルピンはアメリカにいた頃から飼っていた猫だ。自分たち兄弟と同様にオレンジが大好きで、見ると即座に駆け寄る―――
 ―――というのに。
 「カルピン?」
 もう一度呼びかけ、見回す。やはりいない。どうやら先ほどリョーガが投げたオレンジに反応しなかったのは、この場にいなかったかららしい。
 「仕方ないなあ」
 ため息をつき、結局リョーマは屈めていた身を起こした。テニスボールなら後でいつ拾っても構わないだろう。





 愛猫を探して三千里―――はもちろん無理なので
3000cm程度うろつき、暗い通路にて。
 ほあらぁ〜
 「カルピン?」
 聞こえた鳴き声に、リョーマは目を細めた。この辺りに光は届いていない。僅かな月明かりの向こうに見えるのは、小さな白い影と―――
 「ほ〜ら来い来い」
 ―――大きな白い影だった。
 最初はそれが手にしていたひと房のオレンジに、いなくなった兄とまた会ったのかと思ったが・・・どうやら違ったらしい。服装はもとより、最初の声から全く違っていたのだが。
 もう少し近寄る。正体に先に気付いたのは、闇に目が慣れているらしい相手の方だった。
 こちらを向き、しゃがみ込んでいた膝を伸ばした。高さが上がり、ようやく顔まで満足に照らされる。
 「よっ、越前」
 「佐伯さん・・・・・・」
 他校生では、千石と並んで跡部の次によく会う―――つまり跡部とよく一緒にいる―――男の名はさすがに即座に出てきた。
 コック姿の佐伯に、夕食時の事というか跡部の言動を思い出す。
 ―――『―――庶民の味だな』
 「アンタ庶民だったっけ?」
 「いきなり失礼だなあ。とりあえず景吾に比べたら9割5分以上の人間は『庶民』だろ」
 「見てたの?」
 「客の反応を知りたがるのは料理人として当然の思いだろ? ただし見てないけどな。『おかわり』作るのに忙しかった」
 「んじゃ何でわかったワケ?」
 「あのメンツでそういう失礼な発言をするのは景吾、切原、でもってお前くらいだ。切原は俺とタメ張って庶民だったから言わない。お前は俺が庶民か知らない。となると消去法で残るのは景吾だけだろ?」
 「庶民だったんだ、切原さん・・・」
 「テニスの指導に行ってやったらその電車賃と引き換えにプライド売ってきた。俺を『庶民』なんて言える位金持ちだったら1レッスン1万円程度楽に払うだろ?」
 「いや無理でしょそれ・・・」
 「正解言うと景吾は俺の作った料理の味よく知ってるからな。小さい頃から跡部家の厨房入り浸ってたし、おかげで六角でもちょっと手の込んだ料理食べたいって時は俺に声がかかるよ」
 「跡部さんの家で慣れた? それならむしろ高級品になんじゃないの?」
 「ならないさ。跡部家全体の風潮として、金持ちである事に拘らない。美味ければ上品だろうと下品だろうと構わないのさ。なにせ跡部親子はともかくそこに勤めるお手伝いさん達は全員それこそ『庶民』なワケだし。高級感に拘ればまずこっちがネを上げる」
 具にもつかない会話をしている間にも佐伯の手は動いていた。とはいってもオレンジの皮を剥いていただけだが。
 再びしゃがみ込む。皮を皿に実を乗せれば、待ってましたとカルピンがむさぼりついた。
 2人の視線がカルピンに向いた。向いたまま、会話だけが続く。
 「で、アンタ何でここにいんの?」
 「兄弟で同じと見せかけて微妙に違う質問すんだな」
 「俺リョーガじゃないから」
 「そりゃそうだな。答えは同じでいいか?
  割のいいバイトがあったんでな。応募したら受かった。ただそれだけだ」
 「また跡部さんに付きまとってんのかと思った」
 即座に言われ、佐伯が薄く笑った。
 「気付いてたんだ」
 「ずっといられれば嫌でも目に入るからね。邪魔なのは
 「そりゃ失礼。ま、もう邪魔しないから安心しろよ」
 「何で?」
 「して欲しい? 邪魔」
 「・・・・・・いい」
 はぐらかされ、リョーマは憮然とした表情で首を振った。
 佐伯が立ち上がる。エプロンのポケットから袋を取り出し、
 「ほい」
 「何?」
 「差し入れ。使わなかったから」
 不審な顔で受け取る。開いてみれば、そこにあったのは煮干だった。
 「わざわざ?」
 「コイツと、あともう一匹にやっといてくれ。さすがにエサまでは考えてなかっただろうから」
 ワケがわからないまま、リョーマは一応受け取っておいた。そういえばこっそり連れて来たはいいがエサまでは考えていなかった。危うく2日弱何も与えないところだった。
 「・・・・・・ありがと」
 小さく頭を下げる。いくら『敵』とはいえ、ものまで貰った以上礼は言うべきだろう。先程のオレンジも含め。
 「そういえばアンタ―――」
 言いかけたリョーマの言葉は、
 被せるような佐伯の言葉にかき消された。
 「そういやお前ってブラコンのケあり?」
 「ンなワケないだろ!?」
 即刻叫び返す。はははははと笑って、佐伯は去っていった。
 暫し呆然と見送り、
 「・・・・・・・・・・・・やっぱワケわかんない、あの人」
 リョーマはため息と共に呟いた。
 「―――誰がだ?」
 「うおわっ!?」
 見送ったのとは逆方向から声をかけられ、素で驚く。
 振り向く先にいたのは・・・
 「跡部さん・・・」
 「よお越前。お前も散歩か?」
 「別に―――」
 言いかけ、気付いた。『あと一匹』の正体。
 それは跡部の肩の上にいた。肩の上で丸まり、完全に闇と同化していた。おかげで最初は全く気付かなかったのだが。
 ふにゃあ〜
 と、そんな感じで大欠伸する黒猫。丸まり、寝ようとするそれを笑いながら跡部が撫でた。撫でつつ、肩から下ろす。さすがにあのまま寝ればずり落ちていただろう。
 「連れてきてたんだ、シャルロット」
 「お前と同じくな」
 空いた肩を竦める跡部。猫愛好家同士として、それ以上の説明はいらなかった(いや跡部は動物全般愛好家だが)。
 まだオレンジを食べているカルピンのところへ、シャルロットを降ろす。2匹は仲良くエサを取り合った。
 飼い主2人もまた、何となく並んでみた。壁に身を預け、のんびり海を眺める。
 静かな時が流れた。
 「―――ああ、そういえば」
 静寂の中で、先に口を開いたのは珍しくリョーマの方だった。手に持っていたごわごわ感―――ビニール袋を、跡部に差し出す。
 「あん?」
 「差し入れだって。佐伯さんから」
 「会ったのか? アイツに」
 「ワケわかんない事言ってワケわかんないまんまいなくなったけどね」
 「その辺りはいつもどおりだからいいけどな」
 「・・・・・・いいんだ」
 半眼で呟くリョーマに苦笑を浮かべ、跡部は袋を受け取った。開く。もちろんあるのは煮干の山。
 「またアイツは・・・・・・」
 苦笑が苦笑いに変わる。それ以上の言葉は浮かばなかった。
 猫を連れて来た事など向こうが知っているワケはない。なのに用意していたらしい。こちらのやる事など全てお見通しという事か。お見通しと―――なる程にこちらをよく見ていた、と・・・・・・。
 くしゃりと頭を掻く。掻いた手を、
 リョーマの頭にぽんと乗せた。
 「何?」
 「明日は勝てよ、ぜってー」
 にやりと笑う跡部に、リョーマも同じ笑みを浮かべた。
 「誰に言ってんの? 当たり前でしょそんな事」
 「それもそうだな」







・     ・     ・     ・     ・








 明かりを見るとむやみに飛び込みたくなる夏の虫ではないが(そしてこう書くとと叙情が欠片もないが)、暗い通路にいた佐伯はなんとなく明るいところへ出てきた。
 出てから気付く。そこがプールだった事。開けた場所かつ月明かりがプールに乱反射していたから明るかった事。そして―――
 ―――プールを見下ろせる2階テラスに誰か在る事。





 戻ってきてしまった2階テラスにて。
 「『そろそろ世界の裏見んのも飽きてきたんじゃねえのか』、か・・・」
 先ほど跡部に言われた言葉。繰り返しながら、リョーガはテラスの柵に膝をかけた。
 後ろ向きに、体を倒す。逆さになった頭の上には、逆さになったプールが見えた。
 静かなプール。そこには誰もいない
 「―――飽きたのか?」
 足音もなく、気配もなく近付いてきた誰か。気付いたのは声をかけられたからだ。全く珍しい。
 これが自分を狙うヤツだったら、自分はこのままなす術も無くやられていただろう。わかっていながら、リョーガはぶら下がったまま起きなかった。もうわかっていた。来たのが誰なのか。いや・・・
 ―――来たヤツが自分に危害を加えるか否かを。
 「いや別に」
 どこからともなく現れ、隣でこちらは普通に腰掛ける佐伯に首を振る。
 「なら疲れた?」
 「いいや。それもねえな」
 「だろうな。だったらもう生きてけやしないしな」
 「・・・まるで人を暗闇でしか生きれないゴキブリみてえな言い方しやがって・・・!!」
 「暗闇でしか生きられないのはせめて吸血鬼だろ。ゴキブリは日の下でも平然と這いずり回ってるだろ?」
 「ンな事ねえ・・・・・・ってまった話題壮大にズレたな〜」
 「俺はゴキブリ話でも可」
 「俺は嫌だ・・・・・・」
 ぶら下がったままげんなりと呟くリョーガ。見下ろし、佐伯はさらに下を見た。プールの中にはリョーマが忘れていったテニスボールが1つ。
 「所詮世界なんてこんなモンだろ」
 「えらく諦めた見方だな」
 「そういう意味じゃない。ただ表と裏っていうのはそこまでかけ離れたモンでもないだろ、って事だ。少なくとも完全に逆になるほどは・・・って俺は思うけどね。―――例えばあんな感じで」
 指差す。水にぷこぷこ浮かんだテニスボールを。
 「表と裏なんていうのは、あんな感じでそれこそ『表裏一体』なんじゃないかな。ほんの僅かな一線でしか区切られてなくって、でもって大抵の人間はその両方に浸かってる」
 「つまり俺も裏と同時に表にもいる、ってか?」
 「さあね。常に両方にいるわけじゃない。風に煽られれば水に沈むし、波に跳ね上げられれば空中に浮く。何にしろ、どっちも一瞬の事だ。すぐにまた元に戻る」
 とりとめのない話を一通りして、
 佐伯はリョーガをひたと見据えた。
 「お前苦しいんじゃないか? ずっと水の底にいるって思い込むから。
  だから助けて欲しいんじゃないのか? 水面まで引っ張り上げて欲しいんじゃないか?
  ―――だから越前に構うんじゃないか? アイツなら自分を引っ張り上げてくれると思って」
 言いたいだけ言い放つ。だからどうするわけでもなく。ただ言ってみたかっただけかと問われれば否定も出来ず。
 なのにそんな佐伯の演説を、リョーガは止める事もせずじっと聞き、
 関係のない事を返した。
 「いろいろ見てんだな、お前」
 「客観的に物事を捉えるのは得意でね」
 「代わりに主観的に捉えるのは苦手、か?」
 人の事はよく気がつきよく考える佐伯。彼が唯一考えていないのが自分の事だろう。だからこそ、いくらでも汚れ、穢れ、ぞんざいに扱う事が出来る。
 ぶら下がったまま、リョーガが両手を伸ばした。空の両手。いつも持っているオレンジは先ほどあげてしまった。
 佐伯もまた、立ち上がり向かい合い、両手を伸ばしてきた。こちらも空の両手。持っていたものは、全て手放してしまった。
 空の手を握り合う。不思議な感じだ。まるで水面に映った自分と手を繋ぎ合うような。
 リョーガの下にはプールがあり、海があり。
 佐伯の上には水以上に全てを飲み込む空がある。
 ふいに、佐伯が呟いた。
 「どっちが『水の中』なんだろうな」
 口から零れただけの言葉。正確に意味を掴み、
 リョーガはにやりと笑った。掴んだ手を引っ張りながら。
 「どっちでも関係ねえさ」
 反射的に引っ張り返す佐伯。足を突っ張り、自然腰が引き気味となった。
 力の篭った腹筋に足の裏を当て、巴投げの要領で上へと跳ね上げさせる。
 手を繋いだまま宙へと舞う佐伯の体。普通の流れでリョーガの体も外へと落ちた。
 「うわっ・・・!!」
 「お、っと・・・・・・」
 バシャーン!!
 ・・・という音は、多分どちらの耳も捉えていなかっただろう。
 1階のプールに落ち、ずぶ濡れになった佐伯は苦りきった顔で髪を掻き上げた。
 「・・・・・・で?」
 問う。同じく落ちて現在浮上中のリョーガに。・・・・・・落ちる過程でリョーガを組み敷いたおかげで自分は無傷かつ素早く浮上出来たのだが。
 「だから、
  ―――こうやって2人で落ちちまえばどっちが中でどっちが上かなんて気にする必要なくなるだろ?」
 浮上してくるなり笑ってそんな事を言ってくるリョーガ。もう一度沈めようかと思い、
 佐伯はぷっと吹き出した。
 「ま、確かにな」



―――5α








 ―――せっかくの手塚の場面が跡部に置換されました(爆)。この次でもう1シーン同じ目に遭いそうです手塚。別に彼が嫌いなワケではないですよええ決して。ただ手塚にそのままやらせるとリョーガは一晩に一体何人と遭遇してんだと突っ込みたい事態になりそうだったもので。
 そういえばコレ、リョーガが「じゃ、あばよ」と言った後物凄くサエ乱入させてそのまま跡部と手塚監禁して欲しかったです。「な、お前は・・・!?」とか驚いている間にまず手塚ノックアウト。跡部が「手塚!」とか呼んでるところでさらに2人がかりで襲い掛かるのですよ。きゃっ☆ 卑怯万歳! 跡部もうつ伏せに拘束されて「卑怯だぞてめぇら!!」。わかってるってv 佐伯もそんな跡部を見下ろしふっと笑って「悪いな跡部。お前に恨みはないんだけどな」(←説得力0)とか。
 ・・・・・・ただしその展開だと映画の内容とかけ離れすぎている上やる意味が欠片もないので止めました。この2人押さえてもなあ・・・。真田とリョーマがより容赦しなさそうでヤだよ・・・・・・。
 そういえばこの話というかこのラスト、その後リョガサエで裏に突入させたいなあ・・・・・・とかいうのは邪道なんでしょうねえ・・・・・・。「冷えた躰あっためてやるよ」とか言うリョーガに、サエは「発汗は体温を下げるための反応だぜ?」とかあっさり振ってみたり・・・・・・ってこれでどこが裏突入?
 なお余談というより最早自己確認。サエが跡部と会った際、オレンジを弄ぶだけだったサエがいつ一口齧ったのかというと3ででしたね。実は書きながら自分でも忘れてました。会合中ずっとそこにいたんだサエ。アンタ暇人だなあ・・・とかその辺りの時間経過は気にしないで頂けるとありがたいです。

2005.2.311