● ● ● Placebo ● ● ●
β.いらない恐怖 〜誰か俺を必要としてくれ〜
試合が始まる。先程の大丸以上のワンサイドゲームが。
「おらどうした手塚あ! てめぇの力はその程度か!?」
「くっ・・・!!」
大丸ですら6−0で勝てたのだ。跡部ならば、手加減をしてすら楽に勝てるだろう。特に―――いつか来たるべき手塚との再戦のために、部の引継ぎすら放棄し全ての時間を己の鍛錬に当てている今ならば。
部長として失格なのはわかっている。全国こそ終わったが、Jr.選抜そして新人戦へと、本来なら早く体制を切り替えなければならない。
なのにそれが出来ない。やらなければならない事はわかっているのにそこへ踏み出せない。今までこんな事はなかったというのに。
跡部をこの場へと繋ぎ止めるもの。それは手塚への妄執だった。己が初めて全力を出した相手。初めて、『氷帝部長』としてではなく『跡部景吾』として戦った相手。
いつかまた、同じ舞台で戦いたい。心から切に願った、初めての相手。
なのに―――・・・・・・・・・。
跡部がゲームを取る。
1−0。
2−0。
3−0。
圧倒的な『実力』の差。それでも跡部は、決して手加減をしようとはしなかった。冷たい目の奥に怒りと哀しみを湛えたまま。
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「酷いっちゃ酷いっちゃ!!
こんなんテニスじゃなか!! ただの苛めばい!!」
涙を流して抗議するミユキ。止めようと立ち上がる彼女を―――
千歳が押しとどめた。
「待つばいよミユキ。止めたらあかん」
「なんで!? もう勝負ば付いとーね!! やのに無理矢理やらされて、ドロボー兄ちゃん可哀想っちゃ!!」
「付いとるとね? 本当に、もう勝負ば付いとるとね?」
「そんなん見てわかっと!!」
指を差しミユキが主張する。首だけで後ろを向く―――と。
千歳は笑っていなかった。いつもの柔和な笑みを消し、真っ直ぐな眼差しを、
―――手塚に向けていた。
「決着は、つけたらあかん。
ここで負けたらいかんばいよ、手塚」
「え・・・?」
「跡部は手塚の心の闇―――恐怖そのものとね。
今まで逃げ回っとったモンが、壁として真正面に立ち塞がった。
――――――まだ逃げるとね手塚?
ここで逃げおったら、もう一生向き合えんよ。テニスとも、跡部とも」
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跡部の強烈なストロークを打ち返す。完治したはずの肩に痛みが走った。記憶の痛み―――ではない。跡部はあの時よりも格段に強くなっている。
治った肩ですら返すのが辛い球。このまま続けたらどうなるのだろう。
恐怖が込み上げる。吐き気がする程に。
このまま続ければ・・・
・・・・・・今度こそ肩は完全に壊れるのではないか?
球が浮く。スマッシュチャンスだ。打て。
頭で命令するのに体が動かない。肩が上がらない。もう壊れてしまったのか?
ネットの向こうには跡部がいる。彼の目の前では、痛みにのた打ち回る自分がいる・・・・・・のだろうか。
現実と記憶が錯綜する。何が本物だ? 何が偽物だ?
わからない。唯一の手がかりとなる跡部の目は、眩しくて見る事が出来ない。ただ1つの事に向かい真っ直ぐ突っ走れる強い眼差し。
かつては自分も持っていた筈だ。だから自分は彼と向き合った。向き合えたんだ。あの関東の舞台で。
なぜ今は向き合えない?
俺は・・・
・・・・・・・・・・・・いつから前が見れなくなった?
● ● ● ● ●
「ゲーム跡部。4−0」
跡部自身のジャッジがコートに広がる。弾き飛ばされ落下した手塚のラケット音と共に。
ため息にも似た声でコールを飛ばし、
「止めた」
「む・・・?」
手塚が視線を上げる前で、跡部は上げた手をぱたぱたと振った。
「この勝負止めた。俺の棄権負けでいいわ」
「・・・どういう事だ?」
自分がするのならともかくなぜ彼がする?
疑問を飛ばす手塚を、
跡部は炎も消した冷め切った目で見下ろした。
「てめぇが怪我のせいで潰されそうになってる。他のヤツに潰されるんだったらその前に俺が完全に潰してやる。
そう思って試合申し込んだんだがな・・・
―――――その価値もねえわ。今のてめぇは」
手塚の目が見開かれ・・・・・・そして閉じられた。彼の罵倒は尤もだ。今の自分は、彼には相応しくない。
俯く手塚へ、さらに辛辣な言葉が続けられた。
「憶えてるか手塚? 関東大会。
お前は自分を犠牲にしてでも青学勝たせようとしたよなあ?
あん時ぁ、敵ながらお前の事カッコいいと思っちまったぜ。そこまで部員の事思ってたお前を、正直眩しく感じた。
だからそんなお前に敬意を払い、俺も俺が持てる全てで挑んだ。手加減もしなかったし、棄権も勧めなかった。後々そうなるだろうと予想はついていたが、お前の覚悟を無駄にしたくなかった。真正面から向き合いたかった。
お前がどう思ったかは知んねえが、あの試合は俺にとって最高のものだった。お前は俺の、唯一無二のライバルだと思った。
―――んだがな。
あん時のてめぇはどこ行ったよ?
今のてめぇ、最高にカッコ悪いぜ。手塚」
項垂れて、受け入れる。全く以ってその通りだ。反論の余地などどこにもない。
目を上げない手塚。それは良かったかもしれない。そんな彼を見下ろす跡部の目は、完全に失望へと染まりきっていた。
「もういい。邪魔したな」
「跡部・・・・・・」
背を向けコートから出ようとする跡部へ、手塚はようやく顔を上げる事が出来た。
手を伸ばそうとする。だが動かない。足も動かない。
何かが絡み付く。絡み付き、沈めようとする。最低の勝ちを得たまま、このコートへと。
このままでいいのか? 呑み込まれてしまっていいのか?
―――このまま俺は、ここで終わっていいのか?
藻掻く。足掻く。だが解けない。
苦しい。
助けて。
誰か助けてくれ・・・・・・!!
開いた目の先に1人の男がいた。跡部景吾。自分を唯一無二のライバルだと言ってくれた男。
そいつが、
自分の元から去ろうとしている。
行かないでくれ・・・!
心から叫ぶ。声は掠れて無に消えた。
引き寄せようとする。手は震えるだけで全く上がらなかった。
跡部を止められない。止められないまま、彼はどんどん離れていく。
コートを出るまで、あと3歩。
2歩。
1歩。
ラインを踏み―――
そこで止まった。
「こんなトコで燻ってんじゃねえ!!
俺たちに勝ったんだろ!? だったら全国制覇くらいしてみろよ青学部長!!」
「――――――っ!!」
呪縛が、解ける。
全身に、左肩に絡んでいたものが、全て断ち切られた。
伝わる。跡部の―――氷帝部長の悔しさとやるせなさ。最早自分たちは他人に夢を託す事しか出来なくて。
それを前に、自分は一体何をやっているのだろう。自分に負けて落ち込んで。まだ先に道があるのに、こんなところで歩みを止めていいのか?
(よくは・・・ないのだろう? なあ跡部)
「―――跡部!!」
「・・・あん?」
声が出た。体が動いた。
振り向く跡部に、手塚は言った。真っ直ぐに見つめ。
「あと1球。あと1球で構わない。
続けさせてくれ」
「ほお・・・?」
片眉をぴくりと上げ、相槌を打つ跡部。その声は、試合前に発したものより温かみを帯びていた。
にやりと笑う。
「いいぜ。続けてやるよ」
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「なあお兄ちゃん・・・。今ん、ウチの聞き間違えやったらいいんやけど・・・」
曖昧な笑みを浮かべ首を傾げるミユキに、
千歳は言った。はっきりと。
「ただの逆恨みばいね。状況に流されおって手塚は気付かんかったようやけど。
跡部も小さか男かー」
「はあ〜・・・。
それでええんと?」
「ええんじゃなか? ほれ」
指差す千歳の先では、
手塚が下ではなく上からサーブを打とうとしていた。
「跡部もあれで200人の部員抱えた部長ばい。困ったヤツの助け方ならようけ心得とる」
「それが今んっちゃ?」
「そうとね。
手塚の肩が上がらんかった理由は怪我の記憶と再発の恐怖。それに自分がいらなくなる恐怖」
「自分がいらなくなる?」
「青学は、良くも悪くも手塚が中心で成り立っとる一団とね。そん中心が抜けた。なのに問題なく関東で優勝した。
誰だって怖いんよ。自分の存在意義を問われるんは。
このまま自分がいなくても青学は大丈夫なんじゃないか。なら自分は何のために戻るんだ? 今力を回復し戻っても、それを一体誰のために使うんだ? 誰が自分を求めてくれるんだ?
治れば『現実』を見なければならん。なら一生治らなければいい。
―――安心させようとした青学みんなの活躍が、余計手塚を追い詰めとったとね。こう言うと青学のみんなには悪いやろうけど」
「んじゃあ・・・」
ミユキが指差したのは跡部だった。意味を察し、千歳が元の笑みを浮かべる。穏やかなようで、人を食った笑いを。
「甘えっ子は叱るに限る。跡部様々とね。
本来自分に厳しい手塚やから、腫れ物に触る扱いはせず現実を見せた方がいい。じゃけん、あえて手加減はせず攻め続けたとね。かつて互角だった筈の2人に、今どんだけの実力差があるか見せつけるために。
逆恨みでいいとね。同じ部長・同じ力を持つ相手として、手塚は選ばれ、そんで託された。それだけで充分、手塚には己の存在意義になったばい。
まあ、帰ってみればもっとはっきりわかるとね。自分を待っとうヤツらがおる事は」
―――γ