● ● ● Placebo ● ● ●
γ.勝てない恐怖 〜俺はコイツに負けるのか・・・?〜
今までの苦悩は何だったのか。何の問題もなく肩が上がる。
(いや・・・、それどころか・・・)
「行くぞ」
掛け声と共に振り下ろす。放たれたサーブは、手塚の予想以上のスピードで跡部のコートを穿った。このスピードでは跡部も到底返せ・・・
「ハン! やりゃ出来るじゃねえの」
・・・ないといった推測を裏切り、跡部は余裕綽々で返してきた。やはり向こうも実力を上げてきたようだ。
それを証明するかのような、更なる強烈なリターン。
打ち返す。―――肩に痛みは走らなかった。
(本当に完治したのか・・・。ならば・・・)
行けるか。
――――――百錬自得の極み。
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手塚を包む空気が変わる。体中からオーラが発せられ――――――左腕1本に集中する。
(あれは・・・・・・)
かつて幸村に聞いた事がある。無我の境地での溢れるパワーを腕1本に集め云々。とても強くなる技だがやはり傷めた腕では使えないのか、最近では全く見られなかったそうだ。もちろん自分も見た事はない。
つまり・・・
(これから見るのが、コイツの本来の力・・・ってか)
結論付け、跡部は薄く笑った。自分はどこまで喰らい付けるか。
オーラの集まる腕で打たれる。片腕1本。なのに・・・
「ぐっ・・・!!」
打たれた跡部は、苦痛に呻いて後ろに下がった。両腕で尚受け止めきれない。
それでも意地で打ち返す。勝負はこの1球きり。本気を垣間見ただけで終わらせてたまるか。
返した球が・・・手塚の元へ戻った。
「手塚ゾーンか・・・!!」
焦りがさすがに声に出た。わかっていたなら対策に出たというのに。
(いや・・・)
わかっていたら本当に対策に出られたか? 返すだけで精一杯だというのに。
手塚はもう次の1撃に向け万全の態勢に入っている。対する自分は後ろにたたらを踏んだまま。今から立て直して間に合うか?
(いや・・・)
再び否定する。確実に間に合わない。
仮に追いつけたとしても、不安定な体勢では先程と同じ―――どころかそれ以上になるであろう球は返せない。
跡部の頭を絶望が襲う。
(俺は・・・)
――――――結局コイツには勝てないのか・・・・・・・・・・・・?
● ● ● ● ●
「すごいっちゃドロボー兄ちゃん!! 強いなんてモンじゃないっちゃ!!」
先程の泣き顔はどこへやら、ぴょんぴょん跳ねてミユキが喜ぶ。
千歳も嬉しそうにその頭をぽんぽんと撫で、
「じゃが・・・・・・
――――――跡部もここで終わる男じゃなかとよ」
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1撃目を返した跡部の顔に、絶望が浮かんでいた。初めて見る顔だ。関東で、肩を痛めそれでも続行した時ですら見なかった。
(お前が諦めだと?
らしくない)
目を覚ませ跡部!!
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とん・・・・・・。
ゆったりとした球が、構えたラケットの前でコートに着地した。手塚のコートに。
「な・・・・・・?」
驚きの声を上げたのは・・・手塚ではなかった。
呆気に取られた跡部。永遠に引き伸ばされたような、それでいて消失したような一瞬。一体何が起こっていたのか、自分にすらわかっていなかった。結果から言えば、打ち返したのだろう、あの球を。
「え・・・?」
同じくきょとんとするミユキ。かろうじて何をやっていたかはわかったが、どうやってそんな事をやったのかは全く不明だった。
1撃目を何とか返してすぐ、跡部の顔から表情が抜け落ちた。焦りも絶望もない顔。中心で、開ききった瞳だけが違う色を放っていた。
たたらを踏んだ体。足で踏ん張って止めたのでは遅すぎる。跡部は崩れた体を反転させ、わざと後ろ向きに踏み出した。その足を軸に円運動で戻って来る。より大きな反発を得。
今の手塚の球は、バウンドした程度では勢いが殺されない。横向きに走り前に打ったのでは、腕力しか使えないし体勢が整わない。悟り、跡部は全く逆の策に出た。
あえて前に飛び出したのだ。
先読みですらまだ手塚がどこに打つかわからない中、賭けに出た跡部。眼力をフルに駆使し、コートの全てを支配する男は、確かにこの瞬間手塚をも支配した。出たその場所に返してきたのだ。あるいは手塚もまた、かつての跡部同様真正面から勝負を受けるつもりだったか。
走り込む勢いを利用して跳ね上がる。スマッシュではない。そこまで球は浮いていない。
強制的に球を浮かせて打ったものは、ドライブボレーだった。既に2度に渡る百錬自得の極みにより威力・回転共に上げられていた球は、最後の1撃を受け―――
―――全ての勢いを殺された。
緩い球は重力に従うままネット際に落ち、そして跳ね返る事なく跡部のコートへと戻っていった。手塚の零式ドロップと同じ軌跡で。
「今ん・・・、何ばいね・・・・・・?」
ぽつりと呟く。もう跳ね回ってはいなかった。どころか、怯えたように両腕で体を描き抱いている。
どうやら妹も悟ったようだ。跡部の強さ―――底力は、手塚の比ではない・・・と。
当たった少しの時間で、完全に逆向き逆回転をかけたのだ、この男は。
足りなければ自分が吹っ飛ばされ、多すぎれば構えた手塚のラケットに打たれていた。僅かなズレも許されない。読み違えれば破滅に追い込まれたのは自分だっただろうというのに。
どころかあれだけ何倍にも込められていた球威を、僅か1撃で殺いだ。どうやって?
まともに受け止めたのではそもそもラケットが持たなかった。実際跡部のラケットには大きな穴が開いていた。ボールよりも大きい。ガットが切れる度に、切れていない方向へと転がしていたのだろう。そして最後はフレームで打った。フレームで―――さらに回転を殺し。
これだけでもまず誰も出来ない達人芸だが、もし出来たとしても腕への致命傷となっていただろう。特に、回転の微調整を行うためあえて両手で持たなかったとなれば。
それでありながら、跡部はまだラケットを握り続けている。全く傷みもなさそうだ。
「いよいよ、開花ばいね・・・」
「開、花・・・?」
ミユキが顔を上げる。怯えた表情のまま。
それはそうだろう。頭に乗せた自分の手もまた、震えているのだから。
気付き、千歳は手を引っ込めた。見つめる。
珍しい。この自分が、萎縮している。それも、幸村でも白石でもない相手に。
「跡部はな、自分でも気付いとらんが究極のカウンター気質ばい。勝ちに拘り、相手がそれに相応しないと実力が発揮出来ん。
今まではどちらか欠けとったから出んかった。今ん手塚は合格見なされおったとね」
「そーなん・・・?」
「らしいとね。俺も佐伯に聞いただけやし、やなかったら気付かんかったかもしれんけど・・・」
苦笑する。
「手塚は多分、肌で感じとっとったばいね。
跡部が本気出しとらんかった事を。自分が手加減されとった事を。
―――跡部にはまだまだ、自分も知らん未知の力が秘められとる事を」
「それが、今んっちゃ・・・?」
「今んはまだ片鱗じゃろうね。やけど・・・
・・・まさかいきなり無我の境地通り越して百錬自得の極み見せられおるとは」
「へ・・・?」
「今ん跡部は手塚と同じとね。右腕1本に力を集中した。やから返せたんよ。
しかも今見たばっかの技完全に制御[マスター]しよった。手塚が技生かすんに使ったのが手塚ゾーンなら、跡部が使うんはやっぱ眼力ばいね。それも全身を使こうた洞察。
どの程度力かけるか決めたんは、跡部が元々持っとったテニスセンスでとね」
笑って見やる。「ふ・・・は〜っはっはっは! まあちったあやるじゃねえの。だが、その程度で俺様が倒せるなんて甘っちょろい事考えんなよ手塚?」と、平静を装いながらちょっぴり目を泳がせる跡部を。
やはり本人全く気付いていないらしい。自分の実力の高さを。
「やれやれ。何も知らずにそない才能[バケモン]飼っとるとは。末恐ろしい子やねえ跡部は」
(じゃけん・・・)
思い出すのは、かつてそういった事を教えてくれたヤツの言っていた台詞。
―――『景吾はな、頭を使うから弱いんだ。でもって、頭を使うから強いんだ』
謎掛けのようなその言葉。さらに一言付け加えると、もしかしたら少しはわかるかもしれない。
―――『へえ。それ「無我の境地」って言うんだ。景吾以外で使えるヤツ初めて見たよ』
無我の境地というと、人の技を使えるようになるものだと解釈される事が多いが、実はそれは効果の一片でしかない。
本当は、頭を無視し今まで染み付いたプレイを体が勝手にする事―――条件反射だ。頭を経由しない分悩みや迷いが抜け行動が早くなるし、やや単調になり気味だが考えただけでは気付かないところにまで神経が行き渡る。
かつて自分の前で使ってみせた幸村は、『まあ、これは他のヤツが使ってたものを俺が勝手に改良して名前を付けただけなんだけどな』と笑っていた。その後のJr.選抜で、てっきり幸村の知り合いかつ実力の高そうな佐伯が使っているのかと思ったが・・・・・・どうやらその台詞からすると、オリジナルは跡部だったらしい。が、
その後どんなに見てみても跡部がそれを使う様子がない。試しにこちらも使ってみたが、ただただ驚くだけだった。
どういう事なのか問い掛けると、佐伯と幸村は笑って言っていた。
―――『なにせ跡部様だから』
―――『自分を支配するのは自分だけでいい。アイツにとっては、頭[じぶん]の命令なしに体が勝手に動くのは最高の屈辱なんだよ』
笑ってはいるが・・・・・・決して馬鹿にしてはいない。その理由が今よくわかった。
(開花させんままの方が強くなるばいね)
無我の境地の発動。一見格段に強くなったように思えるが、つまりは今まで覚えたものを発表するに過ぎない。新たに覚えていかなければそこから実力は上がらない。
この調子では、跡部はリョーマが真田戦でやったように、意識して無意識状態にはなれないのだろう。矛盾した言い方だが。
だからこそそれを捨てる。まぐれの100点満点より確実な70点で満足する。そちらの方が結果的に身に付くと、頭で理解しているから体を押さえつける。
証明するように、同じ70点であっても関東の時より飛躍的に上達している。手塚が封印を解いたのなら、跡部は封印を負荷として実力を上げている。
(今ん跡部の技、さしずめ『カウンターDドライブ』いうトコかね)
Dドライブ―――デスドライブ。リョーマのCOOLドライブを知った後「A・B・Cとくれば次はDだ!」と盛り上がったどこぞの誰かが、橘との試合後表彰式までの間に作り上げてしまった技だ。ドライブボレーだと言っているのに同じスイングで逆回転[スライス]をかけ球を戻らせるという外道な一品により『デス』の名がつけられたのだが、もし跡部がそれをそのまま真似したのなら今のは打ち返せなかっただろう。形こそ同じものの、跡部が打ったのはごく普通のトップスピンだった。
回転が僅かに相殺し切れなかった分戻っただけだ。し切れなかった・・・し切らなかった分。
跡部が跡部なら手塚も手塚だ。あれだけの打ち合いの中ドライブボレーと来れば、通常なら少しでも勢いを殺そうと後ろに下がる。それでありながら、手塚はそれが猫騙し的ドロップボレー(に結果としてなる)だと気付き前に出てきた。戻らなければ打ち返していただろう。
薄く笑う。震えは大きくなったとも収まったともいえる。
2人ともまだまだ発展途上だ。片や2年以上のブランク、片や完全無自覚。完全に咲ききるのはもっと後だろう。
(ま、咲いたら後は散るしかなかとね。じっくりゆっくり咲くばいよ)
―――δ