「不二〜!!!」
 『不二!!』
 『不二先輩!!』
 病室へと駆けつける、青学テニス部員たち。
 交通事故に遭い、半年間ずっと昏睡状態だった不二が目覚めたという。
 看護師の注意も無視して思い切りドアを開ける英二。その先には、半年前と変わらない笑みを浮かべる不二が―――







 「あれ? お兄さんたち、誰?」







 ――――――いるはずだった。















1.退行



 「―――ごめんなさいね。この子、ちょっと今おかしい状態で」
 「やだなあ姉さん。『おかしい』って何さ?」
 「まあ気にしないで」
 ほのぼのと行なわれる会話。そこだけを見ていれば全然『おかしい』ことはなくて。
 呆気に取られた一同を、弟の代理と言わんばかりの笑みで由美子が見つめる。
 見つめつつ、ベッドから上半身だけ起こす不二の頭を撫でた。
 「周助、今多分6歳くらいの状態で・・・・・・」
 「6歳くらい・・・・・・?」
 「つまり、記憶喪失の一種、と・・・・・・?」
 「記憶喪失・・・・・・に含まれるかはわからないけど、
  ―――完全にその頃まで退行してるの」
 「それで、俺達の事が・・・・・・」
 「ええ・・・。ごめんなさい。『今』の事は全くわからない状態で、6歳の周助から見たら―――」
 「俺達は『知らないお兄さん』か・・・・・・」
 手塚の言葉に空気までもが静まりかえる。それは、手塚の『お兄さん』発言にツッコミを入れる者すら存在しなくなるほどに。
 同情と、悲しみの満ち溢れた幾つもの瞳。それらに見つめられる不二は、
 ―――ただ不思議そうに首を傾げるだけだった。
 「やはり、事故で頭を打って、ですか?」
 「それがよくわからないの・・・。
  確かに頭は少し打っていたんだけど、せいぜいたんこぶが出来るくらいで―――むしろ以前テニスボールをぶつけられて卒倒した時のほうが酷かった―――ああ、これは関係ない話だったわね。
  検査の結果も脳に傷なんかは出来てなかったみたいで、だからなんでこんな事になってるのか医者でもわからなくって・・・」
 「可能性としては、精神的な事、ですか?」
 「多分・・・」
 誰もが辿り着く結論。不二の『事故』が起こったのは裕太が出て行ったその日。その事実を知る者たちの間で『自殺未遂』とまで噂されていたのだ。辛い記憶を忘れ去ろうとするのは脳の健全な防衛反応。
 だが・・・・・・
 一同の視線が横へと動く。由美子から、不二へ。そして、ベッド脇で所在無さげに佇んでいた裕太へと。
 「なら全て忘れるんじゃないんですか? 不二が裕太君といたのはもっと幼い頃からでしょう?」
 なぜ『記憶喪失』ではなく『退行』なのか。裕太の事を『忘れる』ならば記憶のほぼ全てを失う筈だ。
 「だから疑問なの。当り前だけど周助が裕太といたのは裕太が生まれてからずっと。そして裕太と周助の関係が悪くなってきたのは―――少なくともそれが表面に現れ始めたのは
10歳過ぎてから。
  6歳っていうのはどちらにもあてはまらないの」
 由美子の言葉に裕太も小さく頷く。裕太自身不二の事を敬遠し始めたのはその頃―――それこそ『少なくとも』6歳の頃ではなかったということか。当り前だろうが。
 「原因、不明・・・か・・・・・・」
 「おかげで手の打ちようもないわ・・・・・・」
 「あれ? でも裕太見たらちょっとは何か―――」
 英二の疑問に、だがなぜか由美子は首を振るだけだった。
 「駄目なの。とりあえず嫌がってるのを無理矢理連れては来たんだけど―――
  ―――周助、裕太のことわからなかったわ」
 「え・・・・・・?」
 矛盾した発言に驚く。不二は由美子の事はわかっている。もしかしたら教わったのかもしれないが、2人の―――不二の態度を見る限り、そこに不自然さはなかった。それこそ本物の姉弟のように。
 「6歳に退行―――。
  ならもちろん裕太君の記憶そのものはあるんですよね?」
 「ええ。周助も何度も口に出してる。間違いなく記憶はあるわ。それが『今』の裕太と通じてないだけで」
 「それは6歳の不二から見れば裕太君は5歳だからじゃ―――」
 「理由としてはそれが一番かもしれないけど・・・・・・」
 曖昧に頷く由美子。確かに6歳の不二からしてみれば姉は
16歳。24歳の今と比べ多少は変わっただろうが、それでも5歳と13歳ほどの違いはない。そしてアメリカにいる父はまだ目覚めて以来会っていないためわからないが、母淑子も判別がついた以上その可能性は高い。
 が、由美子は口篭もりながらもしかしはっきりと呟いた。
 「何となくだけれど・・・・・・
  ――――――それだけじゃないような気がするのよね・・・・・・」
 「はあ・・・・・・」
 彼女に合わせ、こちらも曖昧に頷く青学部員ら。何とかぎりぎりで事情は把握できたような気もするが―――
 と・・・・・・





 コンコン





 「あら?」
 考える間を与えたいのかそれとも奪いたいのか、黙りこくる一同の間を縫うよう届くノック音に、顔を上げた由美子がベッドを離れてドアへと向かった。
 半端に開かれた扉と小声で交わされる会話。その詳細は中にいた者にはわからない。
 全員の視線がドアからじ〜っとこちらを見る不二へと戻っていく。やはりいつもの笑みではない。何気に大きなセピア色の瞳を広げ、じ〜っと、じ〜〜〜っと、ただ見つづけるだけだった。それこそ未知のものに遭遇した子どもそのままに、興味と恐怖をごちゃ混ぜにした好奇心をその瞳に乗せ。
 その視線に耐え切れず、全員の視線が再び扉に戻る頃会話が終わり―――
 「―――周助、お友達よ」
 そんな言葉とともに開かれる扉。完全に開かれるまでもなく細い体を滑り込ませて来たのは、
 「またてめぇはくっだらねえ事情で騒ぎ起こしてんじゃねーよ。アーン?」
 「・・・・・・あのなあ。開口一発それかよ」
 「ってうっわ〜。めちゃめちゃ混んでるね。やっぱ時間ずらして来た方がよかった?」
 「跡部・・・、佐伯・・・、それに、千石・・・・・・?」
 「え・・・? にゃんで・・・・・・?」
 青学メンバーが驚くのも無理はない。確かに彼らは全員見知った顔だ。だがそれだけのはずだった。佐伯が不二と幼馴染だという話は以前聞いた事があったが、せいぜいその程度。テニス関連で入院をしているのならばともかく、普通の事故で。しかも入院しているのは手塚ではなく不二だというのに。なのになぜ彼らがわざわざ来るのか。学校代表のお見舞いと考えられなくもないが、他はともかく跡部が自らそんなものになるわけがない。
 ―――などと思う一同の前で、
 「景! サエ! 千石君!!」
 嬉しそうに―――本当に嬉しそうに笑い、不二が布団を跳ね除けて3人の下へと駆け寄った。
 「久しぶり!!」
 駆け寄り・・・・・・勢いそのままに飛び込む。
 それを慣れた様子であしらう3人。跡部と千石が両側から腕を差し出し勢いを殺し、中間にいた佐伯が全身で受け止める。
 「久しぶり・・・ってほど空いてないだろ? 前会ってから」
 「空いたよ! 半年も来てくれなかったじゃないか! 僕ずっとずっと待ってたんだよ!? 3人で遊んでたりとかしてたんじゃないの!?」
 「なんで俺様がこんなやつらと遊んでなきゃなんねーんだよ」
 「ひっどいな〜跡部くんってば」
 「俺達はちゃんとしょっちゅう周ちゃんのトコ来てたよ?」
 「てめぇがかーこーかーこー寝こけてただけでな」
 「え〜? じゃあなんで起こしてくれなかったのさ?」
 「そりゃ不二くんの寝顔だったらずっと見てたい―――」
 ごんがん!
 「さて周ちゃん、なんか聞こえなくもなかった幻聴は聞かなかった事にして」
 「聞こえてたよ?」
 「気のせいだろ?」
 「周ちゃんはよくいろんな事見たり聞いたりしてるしね」
 殴り倒した千石を足で死角に追いやりつつ不二の疑問をさらりと完全否定する2人。
 そして、そんな様子を呆気に取られて見る一同。3人の(元4人の)会話に不自然さはない。それこそ由美子との会話と同じく。
 間違いなく不二は彼らを正確に認識している。それは最初に名前を呼んだのにも現れたとおり―――跡部の呼び方が、いつもの名字呼び捨てではなく愛称というか名前であったことに疑問を覚えるが。
 が、先ほどまでの展開と重ね、謎は解けるどころか深まるばかり。彼らの関係でもあり、さらに―――
 「あれ? そういえば今更だけど千石君って髪染めたの? もっと薄かったよねえ?」
 「濃さ薄さ以前に明らかに自然ではありえない色になったと思うけどね」
 「あ〜そーなんだよねそういえば。ホラ、俺ってばしょっちゅう染めてる染めてるってみんなに言われてたじゃん。だからいっそホントに染めてみよっかな〜って思って」
 いきなりがばりと復活した千石が会話に加わる。
 「ああ、先生もお母さんたちもみんな言ってたもんね。千石くんは『ふりょう』だって」
 のだが、それも彼らの間では普通だったらしく軽く流された。
 「ゔゔ・・・。不二くんひど〜い。そんな事ないのに〜」
 「あはは。ごめんごめん。でもすっごい似合ってるよ」
 「だな。益々馬鹿さ加減が増した」
 「あ〜と〜べ〜く〜〜〜ん・・・(泣)!!」
 「いいな〜。僕も染めてみたいな〜」
 「てめぇはこれ以上何色に染める気だ?」
 「え? 黒とか? ちょっと憧れなんだよね。黒い髪って」
 「不二くんが黒・・・? う〜ん・・・・・・」
 「周ちゃん、それは言っちゃなんだけどあんま似合わないと思うよ・・・?」
 「そう・・・かなあ・・・・・・」
 明るかった不二の顔が沈んでいく。それに合わせその場の空気も沈んでいき―――
 「てめぇはそのまんまでいーんだよ」
 言いつつ、跡部が不二の頭をくしゃくしゃと撫でた。視線さえ合わせない乱雑な行為。だが、それを受け、
 「・・・・・・そっか。うん。そうだね!」
 花が咲くような笑み、とはこういうものを言うのだろう。正しくその通りの笑みで、首を竦めた不二が笑っていた。
 それは、多分ほとんど誰も見た事の無い笑み。
 「そうそう」
 「不二くん、今の髪が一番合ってるよ」
 さらに佐伯の手が頭に乗る。千石も頭にこそは乗せないが、肩を抱いてほとんど触れそうなほどに顔を寄せた。
 嬉しそうに、くすぐったそうに頭に乗せられた2つの手に自分の手を重ねる不二。そんな不二を、それこそ弟を見守るような優しい目で微笑む3人。
 普段は他者と己を切り離すための笑顔のフィルター。だが今それは、3人を引き入れるためのものと化している。
 それは―――それこそ、3人が不二の中で他者ではなく己に近いものとして認識されている何よりもの証拠。
 「そうだね」
 笑った不二が繰り返す。
 「黒に染めたら景みたいに若白髪染めたって思われちゃうしね」
 ゴス!!
 「痛・・・!!」
 「灰白色[アッシュ・グレイ]だ俺の髪は!! 若白髪じゃねえ!!」
 「って何人殴ってんだよ跡部!!」
 「サエく〜ん。君に1分前に殴られた俺の立場は・・・?」
 「細かい事は気にしないで!!」
 「そうそう。気にしないで」
 「・・・ありがとう不二くん。サエくんに守られながらそういう君についつい殺意なんて覚えちゃったりするけどそれについてはなかった事にするよ。口にした時点でサエくんと跡部くんに殺されそうだから」
 「よくわかってんじゃねーか千石」
 「よかったじゃん。長生き出来て」
 「そうだね。おめでとう」
 「まあこれだけいろいろあると俺も生き残り方位はマスターしちゃうワケよ」
 「じゃあそのささいな問題は終わりにするとして跡部! 周ちゃん頭怪我してたんだぞ!? 余計に悪化したらどうするんだよ!?」
 「いやここで終わりにされるとそれはそれで問題なんだと思うんだけど―――」
 「ああ!? 殴った程度でコイツがどうにかなるワケねーだろ!? こないだボール思いっきりぶつけてやったってのにピンピンしてたヤツが!!」
 「しかも完璧無視されるしね・・・・・・」
 「卒倒した挙句に病院運ばれただろあん時は!!」
 「そのクセして異常なかったじゃねーか!! 今更1回2回殴ったところで変わんねーよ!!」
 「まあまあ。千石君も元気出して」
 「・・・・・・それこそありがとう不二くん。ところでそれは俺に対する嫌がらせかな? なんっか跡部くんとサエくんの怒りが今めちゃめちゃ俺の方向いてるんだけど」
 「それこそ気にしないで。ね?」
 「さすがに命に関わるから気にしたいかな」
 跡部から庇うように不二の体を抱き締める佐伯。佐伯と言い争いつつも不二の腕を掴み引き寄せる跡部。そして頭上で2人が言い争うおかげでヒマになった不二に頭を撫でられ、いつの間にか結託した佐伯と跡部にそれこそ殺意をばっちり篭めた瞳で睨まれる千石。
 知っている者からは極めてわかりやすく、しかし知らない者からは極めてわかりにくい、そんな4人の関係。
 そしてその中心で、
 「あ、ねえねえところで裕太は? 3人と一緒じゃなかったの?」
 「あん?」
 「裕太君?」
 「なんでまた?」
 いきなり尋ねる不二に、3人の視線が集まる。
 「友達と一緒だって姉さんが言ってたから、てっきり3人と一緒なのかって思ってたんだけど」
 ぶっつりと切れる会話。裕太がいるのはドアの真正面。3人が気付かなかったわけはないだろう。
 が、不二を見下ろす3人の視線は動かなかった。裕太を見ることも、互いに目配せする事もせず、ただ、
 「俺が知るワケねーだろ?」
 跡部が肩を竦め、
 「俺達は一緒じゃなかったよ?」
 佐伯が不二の頭をなで、
 「ごめ〜ん。来てないって知ってたら連れてきてたんだけど」
 千石がぱちんと両手を叩き合わせた。
 「え? いいよいいよ。ただ聞いただけだから。
  そっか。一緒じゃなかったんだ。どこ遊びにいってるんだろ、裕太・・・・・・」
 「その内来んだろ? ほっとけ」
 「相変わらずだね、周ちゃんの裕太君好きも」
 「うん! だって裕太可愛いもん!!」
 「ああ、むしろそういう不二くんの方が可愛―――vvv」
 どすげし!!
 またも何か言おうとした千石を、今度は蹴り転がして跡部と佐伯が不二の体を反転させた。
 「にしても周、今てめえ入院中だろーが」
 「ちゃんと寝てなきゃ駄目だよ?」
 「え〜? せっかく3人が来てくれたのに?」
 「(ため息)。だったらてめぇが寝るまで見ててやるから」
 「ね? だから今日はもう寝ようね。また明日も来るからさ」
 「ホント!? じゃあ寝る!!」
 顔を輝かせ、再びベッドに戻る不二。椅子には腰をかけず、ベッド脇に膝を立てて座る2人。
 両手でしっかり2人の手を握り締め目を閉じる彼の頭を2人が順に梳いてやり―――
 程なく、不二の息遣いが寝ているときのそれになった。
 「―――で? どういう事だ?」
 「単純な記憶喪失ってワケじゃなさそうだけど?」
 「退行―――ってヤツ?」
 緩んだ不二の手をやんわりと外して立ち上がる2人。また復活する千石。
 由美子をひたりと見つめる彼らの目に不二を見ていた時には確かにあった感情は一切なく、ただ冷たい光だけが宿っていた。
 3対の瞳による詰問の中、
 ふ・・・と軽く息を吐いて由美子は肩を竦めた。
 「見たままよ。追加するなら多分6歳くらい」
 『6歳・・・・・・?』
 同時に呟き、ふと考え込み―――
 3人の目の焦点が同時に合う。
 「あ〜。ほらやっぱ嫌だったんだよ不二くん」
 「ダメじゃん跡部。ちゃんと責任取れよ?」
 「俺だけかよ。大体煽り立てたてめぇらが悪りーんだろ? 俺は一回しか言ってねえよ」
 「え? 何か知ってるんですか?」
 今まで黙っていた裕太が口を挟む。彼自身兄に対し嫌悪感―――とも呼べるほどの感情を持ってはいたが、今のこの状態の兄へそれが向けられるわけはない。ただあるのは罪の意識。6歳に戻った原因はなんであれ、もしかしたら自分が出て行くと言わなければそもそも事故自体起こらなかったかもしれない。
 だからこそ願う。早く元に戻って欲しい、と。
 真剣な眼差しで聞いてくる裕太に、
 今度こそ目配せをして、千石が肩を竦めた。
 「6歳っていったら確かね、
  ―――不二くんが『天才』って呼ばれ始めた頃だよ」
 「あ・・・・・・」
 言われて思い出す。そういえば兄がそう周りから賞されるようになったのはその頃からだった。
 ―――裕太が気付かなかったのも無理はない。『天才・不二周助』が広がったのは初等部から。その頃裕太はまだ保育園にいたのだから。
 「え? でも別にそんなのむしろいい事じゃん」
 聞きとがめ、口を挟む英二。純粋に驚く彼に―――
 3人の冷たく、そして寂しげな瞳が突き刺さった。
 「実際そう呼ばれてみろよ。その瞬間から逆差別喰らうぜ」
 「大人も子どももね、自分と違うものは受け入れにくいんだよ」
 「まだ不二くんが跡部くんみたいに、最初っからそれだけの理由をしっかり持ってるんだったらよかったのかもしれないけどね」
 疲れたような笑みを浮かべる佐伯に、千石も苦すぎる笑みで鼻から息を漏らす。跡部のように―――元からやたらな金持ちであり凄まじいカリスマ性があり性格も他人と混ざり難いものがありなおかつ本人もそれで全然構わないような、そんな存在ならよかったのだ。たとえ他人から異分子だと思われようが。
 だが不二は違った。物腰も柔らかいし人に優しく信頼も得やすい。他人から敬遠されるどころか本来ならみんなの中心にいていいはずだった。
 それでありながら、彼をみんなの輪からはじき出した原因。表面だけでの付き合いしか出来なくした諸悪の根源。
 それが―――『天才・不二周助』。
 「けど、今の話からすると言い出したのって跡部なんだよな? なんで跡部が不二をそんな風に呼んだんだ?」
 大石が問う。今彼がそう呼ばれているようにもしもテニスの実力において言われたのならば、むしろ跡部こそそう呼ばれるべきだろうに。
 その問いに、跡部がくしゃりと髪を掻き上げる。掻き上げた手の隙間からぐっすり眠る不二を見下ろし、ため息をついた。確か『あの時』もこんな風にため息をついていた。
 「俺は『てめぇは天才と何とかのすっげー細せえ境界線上でかろうじて天才の方に入れてよかったな』って意味の嫌味で『てめぇはつくづく<天才>だよな』つっただけだ。
  でもってそれ広げたのは俺じゃねえ。即座に爆笑したそこの2人だ」
 「え〜? 俺達も別に広げてはないよ?」
 「ただ嫌味に使わせてもらっただけで」
 「それで広まっちまったんだから俺のせいじゃねーだろ?」
 「う〜ん。よくよく考えてみると普通の意味でも充分通用したんだよね、不二くんって」
 「いつも不二と跡部見てるとなんかどこが『普通』のラインかかなり麻痺してたしね、俺ら。
  ―――ああ、そういえば今はテニスのことでよく言われてるけど、小学校の頃は全般的な意味合いで言われてたんだよ。不二、元々器用貧乏だからね」
 「何やってもソツなくこなしちゃうし。人として比の打ち所なしって感じ?」
 「性格以外な」
 「そーゆー身も蓋もない発言止めようよ・・・」
 「しかもお前にも言えるし、それ・・・」
 自分を棚に上げ言い切る跡部に2人が半眼で突っ込む。実際『(性格除く)何をやってもソツなくこなす、人として比の打ち所なし』は不二だけなく跡部にも、さらには『つまりは世渡り上手』と結論づけてしまえば突っ込む2人にも当てはまるものだったのだ。だから気付かなかった。自分達と周りとの相異。自分達も―――周りも。
 しかし『天才』の2文字がそれを形付けてしまった。異分子の代表として扱われた不二。根底から断ち切られてしまった周りとの絆。一度出来た裂け目は広がる事しか知らず、その中で不二が出来たのは、表面だけを覆い裂け目を隠すことだけだった。
 そしてその原因を作った3人に出来たのは、疲れた不二の居場所を作る事だけ。
 3人といる間だけは、不二は『天才』の枷から解き放たれ、ただの『不二周助』でいられた。そんな空間を造り上げてきた。
 だからこそ不二は3人の中で笑顔を造らない。
 3人でいる時の不二の笑顔は、6歳のときも、『今』―――
14歳の時も決して変わらない。
 それだけの事を・・・・・・してきたから。
 「そんなワケで、不二が青学に入ったの、裕太君が入ろうとしてたからっていうのももちろんあるけど―――」
 「多分全部リセットしたかったからっていうのもあると思うよ」
 「無駄な努力だったけどな」
 鼻で嘲って跡部がしめる。滑稽な姿だ。不二の退行が本当に『天才』に起因しているのだとしたら、その原因は間違いなく由美子除いて今この場にいる全員にある。不二を『青学の天才』たらしめたのは他の誰よりも青学テニス部員たる彼らだ。不二が自ら才能をひけらかしたわけはあるまい。なまじお互い才能があるから不二の『天才』振りを見抜いてしまったのだろう。それが不二にとって何をもたらすのか、気付かなかったのはあの頃の自分達と同じ。
 そして―――
 跡部の、佐伯の、千石の視線が一点で重なる。兄と同じセピア色の瞳を見開き、握り締めた拳を戦慄かせる裕太を。
 どう理屈をつけようが結局のところ不二の退行の最大原因は彼だ。他人からの風評の恐ろしさを誰よりも知っていながら、同じ瞳で兄を見つめてしまった彼。『天才』だと、そう賞される兄と同じ立場に立とうとしつつ、心の中で誰よりも深い溝を作ってしまった愚かな弟。
 今なら彼もわかるだろう。不二の退行が6歳の理由。
 ―――兄弟の亀裂を根底からなくしたかった。
 そして不二が今の裕太を認識出来ない理由。不二にではない。原因は裕太にある。
 6歳の不二にとって亀裂そのものが存在しないからだ。だが今の裕太にはもちろん亀裂があり、不二は敏感にそれを感じ取っている。感じ取り―――だから自分の中の裕太とイコールで結べない。
 見た目の問題ではないのだ。外見だけならそもそも3人を判別できたわけがない。
 全ては中身の問題。名乗る前から不二が3人を当てたのが何よりの証拠。不二は雰囲気[なかみ]で相手を判別する。
 不二が6歳から
14歳になるまでの間。変わってしまったのは不二自身と―――そして裕太のみ。
 他は誰も変わらなかった。
 だから、不二が認識できるのはこの5人だけ。





 由美子、淑子。








 ――――――跡部、佐伯、千石。







―――2.平衡