4.NonStop Rocket!
〜どこへでも連れて行きたい!〜
再び過去と現在と 佐伯編
(あ〜危なかった・・・・・・)
扉を後ろ手に閉め、佐伯は長々とため息をついた。冗談抜きであと一歩で押し倒すところだった。
(押し倒し、たかったんだけどな・・・・・・)
じっと自分の手を見る。さっき、伸ばしかけてすぐ引っ込められた跡部の手。服を脱がせる自分の手に少しでもかかっていたならためらわずに押し倒していただろう。
そうなるよう、煽って、仕組んで―――結局止めて。何にしろ、跡部はこちらの手の中には堕ちてはこなかった。
(強情。まあ、そこも好きなんだけどな)
新たに出来た2つのカギ。跡部の理性と、自分の自制心。より自分たちの距離は遠のいたという事か。
(もうすぐお茶会か・・・。始まる前にどうにかしないとな、コレ)
僅かながら興奮する跡部を見て、自分もしっかり興奮していた。だからといってそれを跡部に押し付けるわけにもいかず、それでも自分は誘惑に負けて手を出した。ある意味あれだけで止められた自分には拍手を送りたい。
唇を噛んで必死に堪える跡部。以前―――自分が彼に触れるにもそれを抑えるにもなんの理由もいらなかったあの頃と、なんら変わりはない。一瞬、時が戻ったのかと思った。
(違うのにな。違う・・・って、ケジメはつけたのにな・・・・・・)
跡部はもう結婚していて、そして自分と彼は執事と主で。
自分に要求されるのは執事としての役割だ。妻と同類のそれではない。
それでも、もしも跡部もそれを望んでいるのなら、
駆け落ちでもなんでも、したいと願っていた。
そんな・・・・・・卑怯な自分には最早笑いしか起こらない。
跡部が絶対望まないとわかっているから、こんな夢物語を描ける。跡部が絶対堕ちないとわかっているから、堕とすためにあれこれいろいろ出来る。
結局自分の自制心など跡部頼み[こんなもの]だ。何も変わってはいない。押し付けるものが躰から心になっただけ。
「とりあえず、さっさと行くか」
現実を無視して歩き出す。前から来たのは、『現実』そのものだった。
「あら、虎次郎君」
「ああ、由美子さん」
「跡部君、着替え終わったかしら?」
「ええ、終わってますよ。じきに出てくるんじゃないかと」
笑顔で答え、脇を通り過ぎようとして。
「前から疑問だったんだけど、跡部君ってなんであそこまで頑張って声抑えるのかしらね?」
「―――っ!?」
何気なく訊かれた言葉に、動揺が出る。思わず振り向いたその先に、自分などより遥かに笑顔らしい笑顔があった。
唇を舐められ、開いた口内に舌を入れられ。
「―――でしょ?」
小さく舌を見せてくる由美子。確かにその先っぽは紅く染まっていた。ラストに慌てて舐めた分か。
現れた動揺は一息で殺し、佐伯は元の人当たりのいい笑みを浮かべてみせた。
「さあ。意地じゃないですか? もう少し単純に言えば恥ずかしいから」
ついでに言うと、今の自分の笑みもつまりは意地だろう。由美子がわざわざ確認してきたところからすると、先ほどの事含め自分との事を直接知ってはいない筈だ。先ほどは迂闊にも手を出しかけたが、跡部が結婚して以来ほとんど何もしていない。少なくとも『頑張って声抑える』必要のあるほどの事は。
知っているからには由美子もまた自分と同じ事をした―――されたのだろう。夫婦なんだから当たり前だ。むしろそれ以前にやっていた自分の方がおかしい。
「恥ずかしい、ね。まあ確かに、跡部君ってプライド高いものね。人にはそんな姿を見せたくないのでしょうね。
―――だからこそ、聴いてみたい?」
次出た動揺は、少し違う意味で。
思い出そうとするまでもなく思い浮かべられる跡部の乱れる姿。どんなに乱れても、絶対に理性を飛ばすことはなく。そしてその理性はこのような事をする自分を否定したがる。
それでありながら決して跡部は拒否しようとはしなかった。見かけ上は確かにむしろまともに受け入れられた事の方が0に等しいが、それでも断固拒否という態度に出られた事はない。
跡部が自分を本当に拒否しようと思ったら実に簡単だ。クビにすればいい。執事の代わりなどいくらでもいる。それも跡部の専属執事として彼の世話しかしていない自分は、たとえいきなりクビになろうが跡部当人以外誰も困らない。当人は当人で新たに誰か雇えばいいのだし。
生まれていた、優越感。跡部がそんな姿を見せていたのは自分だけ。跡部がそんな姿を見せようとしていてくれたのは自分だけ。
自分だけの、特権。それを証明したいからこそ、聴きたいのかもしれない。由美子の言う通り。
ゾク・・・・・・。
(うあ・・・。まず・・・・・・)
先ほどからの興奮がピークに達する。口に残る、跡部の残滓とそれを掻き乱す由美子の味。欲情と嫉妬に、もう躰は限界を訴えていた。
(やっぱさっき止まったのが失敗か・・・・・・)
次は止まらないようにしようと決心して佐伯は歩き出し―――結局再び止まった。止まらざるを得なかった。
またもすれ違いざま由美子が手を出してくる。今度は本当に手を。
腕はほとんど上げず、手だけをこちらの中心へと近づけてくる。
パン―――!
「あら。辛そうだから楽にしてあげようって思ったんだけど?」
「真に恐縮ですが、お断りさせて頂きます」
にっこり笑う由美子に、佐伯も瞳以外に笑みを乗せた。
「させるのは、本命だけ?」
「本命も、してくれはしませんけどね」
これは本当。いつも何かするのは自分の方。それこそあのプライドの高い跡部が自ら何かしてくれるワケはないし、元々互いにそれを望んでいるなんて事もない。
「ふーん。『本命』、ねえ。
今でも?」
「さあ、どうでしょう?」
笑って、おどける。
本命、なのだろう。昔も、今も―――これからも、ずっと。たった一人の・・・・・・愛する存在。たとえ愛することそのものは止めたとしても、気持ちはいつまでも残り続ける。
「――――――なんだったら、私が代わってあげましょうか?」
由美子の言葉に。
佐伯の全身から溢れ出したのは怒りだった。
『不二家との結婚になってよかった。由美子さんなら大丈夫だ。きっとアイツも上手くやっていける』
かつて・・・跡部に別れを告げる前日。不二に自分たちを恨んでいるかと問われ、そう答えた。
本心だった。自分が今まで好き勝手に引っ掻き回し、傷つけ、壊した跡部の心。由美子なら、全て受け入れ癒してくれると思った。勝手だとわかっていながらも、だから彼女に跡部を託した。
実際跡部も彼女の事を認めている。讃えている。珍しいことだ。それだけの器量があるからか。
今は少し危うくなっているところだが、それも時間の問題だ。跡部らもいつまでもここにいるわけではない。帰って、元の生活に戻ればじきに2人は最高の夫婦になるだろう。
なのに・・・・・・・・・・・・
弓のように引き絞られた佐伯の目。今にでも切り裂かれそうな迫力を見せるそれの前で、
由美子は体を折り曲げクスクスと笑った。
「私ね、結婚した初夜に跡部君に言われたの。正確には少し違うんだけど、まとめると『私を愛することはない』って」
「それは―――」
何かを言いかけた佐伯の唇を指で遮り、さらに続ける。
「もうひとつね、さっき私跡部君は何で声を抑えるのかって訊いたでしょ?」
「ええ・・・・・・」
「そしたら虎次郎君答えたわよね。『恥ずかしいから』って」
「ええ・・・・・・・・・・・・」
「ねえ・・・、
――――――跡部君、私に対して何を『恥ずかしがる』の?」
「え・・・・・・・・・・・・?」
怒りを霧散させ、佐伯が呆けた声を上げた。跡部が自分に対して恥ずかしがるのは同じ男なのに自分だけ云々、そういうものらしい。だがあくまでこれは建前だ。本音は―――とにかく何に置いてもよりによってこんな奴に自分が負けるのは嫌。極めて単純なものだ。
それは、出会った当初からなぜかむやみに張り合う自分と跡部の間に出来た暗黙の了解とでもいうべきもの。決して跡部と由美子の間に出来るものではない。
「そろそろわかってきたかしら? 私が『代わってあげる』もの。
私はね、跡部君に対して今のあなたへと同じことをしてはいるけど、跡部君に抱かれたことはないの。ついでに言うと、跡部君は私にそういったことをされてるって知らないの。
―――跡部君はあなたにしか抱かれない。それは現実でも、そして夢の中でも。だからいつも恥ずかしがる」
「アイツ・・・・・・」
泣きたい程の想いを込めて呟く。
わかっていなかったのは自分の方なのかもしれない。跡部の理性を利用して自分の気持ちを押し付けて。
その理性を保つのにどれだけの努力を払う? 跡部は、伸ばした手を引っ込めるのにどれだけの決断を己に強いた?
「『敵』を応援するのもなんだけど、一応言っておくわ。
私跡部君を愛してはいないの。正確には、私も」
ふと思う。
――――――『跡部君』。
夫婦だろう? そう呼ぶ由美子自身も今では『跡部』だというのに。結婚して初めてまともに会ったのだから今まで呼び慣れていた呼び方で、などという言い訳は通用しない。
「忍足にでも、入れ知恵されましたか?」
彼女の文章からは全く通じていない質問。だがどうやら悟ったようだ。それともこちらの苦笑を見てか。
由美子もまた、苦笑して首を振った。
「いいえ。ただそうしようと思ってしただけよ」
「そう言うのがふさわしいのかどうかはわかりませんけど、
―――ありがとうございます」
「忍足君にも言われたわ。そう返すべきかもわからないけれど、どういたしまして。
後は貴方次第よ、虎次郎君」
「そうですね・・・・・・」
頷き、佐伯はくつくつと楽しそうに笑った。
「さすが由美子さんの弟。周ちゃんが言った通りになりそうだ」
「へえ、何言われたの?」
「『国際問題』が起こったら、責任取って俺がクビらしいですよ?」
「ふふ。それなら私も気が楽ね」
「・・・・・・やっぱやるんですか? 10倍以上返し」
「それも誰が言ったのかわかりやすいけれど・・・・・・。
どうかしら? もしかしたらもっと借りを作るのかもね。
―――さ、こんなところでいつまでも時間は潰してられないわ。お茶会の準備に行きましょう。今日は私が入れるわ」